なんのために学ぶかの一例

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なんのために学ぶかの一例

よくある話ですが、「先生、なんで国語なんてわざわざ学校で勉強するんですか、話せるのに」と学校ではへりくつめいた質問が行われます。 では、本当に話せているのでしょうか。 一応国語学を専攻しているものとしては疑問に思います。 言葉とは自分やほかのものを表現するために使われる道具のひとつだと思います。 たとえば、詩では頭の中の情景や気持ちをいかに思っているままに、綺麗に他の人へと伝わるか、ということを私は思いながら書いています。 それはとても難しくて未だにうまくいきません。 詩を書かない人もこの表現には苦労していると思います。 日本語にはたくさんの言葉があります。 表音と表意の両方の文字を使う私たちの言葉はたくさんのことを表現できるようにできています。 しかし、たくさんのことを表現するためにはたくさんの語彙をもたないといけません。 たとえば、病院に調子がわるくて行ったとしましょう。 頭が痛いとしてそれをお医者さんに話す場合、語彙が全くないと 「先生、頭がヤバイ、痛い」 という言葉に集約されてしまうかもしれません。 極端な例ですが、これではお医者さんもどういう症状なのか困惑してしまうでしょう。 そこで役立つのが言葉です。語彙を知っているとたとえば 「頭が痛い、特に後頭部がまるで針で刺されたような痛みがする」 のように詳しく伝えることができるのです。 これは簡単でいきすぎた例ではありますが、すこしでも多く学校の授業で表現を学んでいないと意外と自分を人に伝えるのは難しくなってしまうのです。 はたしてみなさんはうまく「日本語」を話せているのでしょうか、私を含めて。
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