51人が本棚に入れています
本棚に追加
三日月の夜
ビルの屋上に立ち、僕はこれまでの人生を振り返った。
十分経過――。
何も思い出せない自分は、やはり空っぽの人生を歩んで来たのだと痛感した。
普通は、愛する人の顔や、これまでの楽しい事や辛かった事を思い出すのだろうが、僕には記憶はあるが思い出がない。
波風の立たない、平凡で平坦な人生を望んでいたのだが、それが僕には苦痛でしかなかった。
かつて耳にした、こんな言葉が頭に浮かんだ。
――人生の最期。あなたのアルバムには、どんな写真が載っていますか?――
僕のアルバムには、写真は載っていないだろう。
それが、僕という人間であり、僕の人生なのだ。
とにかく、そんな苦痛から解放される為、僕は今日この場所で人生を終わりにする事にした。
ビルの屋上からは、宝石箱の様なきれいな夜景が広がっていて、この光の中に融けるなら悪くないとさえ思っていた。
それにしても、いざ死を覚悟すると、こんなにも冷静な自分に驚く。普通は足が震え、死の恐怖に心を支配されてパニックに陥ってしまうらしいが、僕とっては家の玄関を踏み出す様に、このビルからも飛び降りる一歩も変わらないと思う。
長々と考えてしまっているが、人生を終わらせる為、ビルから飛び降りるとしよう。
さよなら、我が人生――。
さよなら、僕のどうでもよかった人生――。
「あれれ。ちょっと待ってください」
僕の自殺を邪魔したのは、全身黒ずくめの男だった。このビルの屋上には、誰も居なかったはずなのに……。
「だ、誰?」
驚く僕に、男は更に驚く事を口にしました。
「初めまして。私は死神です」
それは、とても三日月のきれいな夜だった。
最初のコメントを投稿しよう!