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 電車の窓のむこうを流れていく景色を眺めていると、いくつもの建物のなかにちらほらと溶け込むようにして立っている桜の木が、ピンク色に染まり始めていることに気がついた。  桜の花のつぼみが、ほころび始めているのだ。  寒い寒いと思っていたけど、もうすぐ春がくるんだなぁと、ぬるい車内の空気の中で座席に腰掛けたまま、ぼんやりと私は思った。  昼間の電車内は空いていて、乗客の人数も少ない。  車内に差しこむ、穏やかな午後の日の光の中で、窓の外を眺めているのは、どうやら私だけ。  周囲の席の人たちは皆、スマホをみつめていたり、少しうつむいて頭を傾け眠ったりしている。  車内はとても静かだ。  カタンカタンと電車が線路を走る音だけが、ぬるい空気と日光のなかに響いている。  ちょうど電車が河川敷の近くを走りはじめたので、そのまま窓の外を眺めていると、いくつもの桜の木を観察することができた。  やはりどの枝にも、咲きかけのつぼみが成っているのが見える。  ああ、いつだって桜の花は、本当に綺麗だ…。  私はいつまでも、桜のつぼみを見つめ続ける。  冬が終わる頃、そして春の訪れを感じる頃、私には毎年思い出すひとがいる。  桜の花を思い浮かべるとき、いつも私はそのひとのことも思い浮かべた。  私の名前を呼ぶときの、静かな声の響き。  すべてを見透かしているような、暗い漆黒色の瞳。  私の頬にふれたときの、手のあたたかさ。  そのひとは、私の兄だった。  …ただし彼は、白い花吹雪の下に佇む、幻想のなかの私の兄。  あの優しいひとは、ただ、私のごっこ遊びにつきあってくれただけ。  兄というものを知りたい、と願った私に、彼は協力してくれただけにすぎない。  でも、あのひとは本当に…私の兄だったのだと思う。  差しだした私の手を、迷わずにつかんでくれた。  そんな私の兄のことを、桜が咲く季節になると、私はいつも思い出す。  
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