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「先日、お貸しした本のことなんですが、ちょっとどうしても確認したいところがあってですね、その今すぐ返してもらえないかと」
「今すぐ、ですか」
「できれば」
一瞬、むっとしたものの、わかりましたと答えた。もともと私が貸してくれと頼んだ本ではない。私が小説家を目指していると聞きつけ、自分が感銘を受けたという小説を、母に押しつけたのだ。まだ目も通していないから、返す口実ができてよかったかもしれない。
五分ほどしたら戻るという五反田と別れ、エレベーターに乗り、自室に戻った。もう母は眠ったのか、物音ひとつ聞こえなかった。足音を忍ばせて自分の部屋に向かい、そっとドアを閉めるとパソコンを眺めた。スイッチを入れることもできず、ただ暗いディスプレイを見つめた。今頃、《彼》はどうしているだろうか。執筆に集中しているのだろうか。一分ほどそうしていた。それからベッドの脇に置いていた本を手に立ち上がって、玄関に向かい、ドアを開けて外に出た。五反田は言葉通り、きっかり五分で戻ってきた。
「助かりましたよ」
本を受け取ると、夕刊を小脇に抱えたまま五反田がいった。
「どうしても読み返したくなって。すぐまたお貸ししますから」
遠慮しますともいえず、曖昧に笑った。
再び部屋に戻り、ベッドに横になった。目を閉じても眠りは訪れなかった。代わりのように、五反田の部屋から声が聞こえた。女が叫んでいるようで、物を投げるような音も聞こえてくる。若い恋人との喧嘩は、五反田の場合、いつものことだった。コース料理のように手順が決まっていて、まず馬鹿でかい音量で映画を見て、そのあと派手な喧嘩をして、仲直りの儀式を行う。聞きたくなくても聞こえてくる。今夜もそのパターンを踏襲したようで、二時間ほどすると睦み合う声が切れ切れに聞こえてきた。
暑さと、迷惑な物音、それに自分の厄介な思考が蛇のように絡み合い、眠れなかった。ようやく眠気が訪れてきたのは四時過ぎで、三時間ほど眠った。起きてすぐに私がしたのは、顔を洗うことでも、食事をすることでも、コーヒーを飲むことでもなく、一階に向かうことだった。短い睡眠の間に、夢を見た。郵便物が間違って別のポストに入っていた夢だ。夢の住人である親切な女性は、もちろん本の入った大判の封筒を、私のポストに返してくれた。
「おはようございます」
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