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ホールの前で若い男に挨拶された。天然パーマの長い髪、馬のように長い顔、そして一メートル八十五センチの身長。全体に痩せていて、どこか薄汚れて見えるのに、目だけが驚くほど澄んでいる。705号室の皆実(みなみ)正太郎だ。賃貸利用の大学生で、大学では「偶然」という劇団に所属している。資源ごみの日に演劇系の雑誌を捨てていたのを見て以来、時折、言葉を交わすようになった。
劇団「偶然」は、演出された偶然性を追求しているのだと皆実は説明した。
「例えば一幕一場の終りに来るとサイコロを振るんです。それによって次のシナリオが決まる」
「それでも用意しているシナリオがあるわけだろう」
「ところがですね、シナリオの作り方もサイコロを振って決めることになっていて」
「それって完成するの」
「実は、まだ一度も。でも、だからこそ、芝居は生きているともいえます」
聞けば劇団に所属しているのは皆実だけなのだという。一人芝居でも芝居ですよと皆実は威張って答えた。結局、三ヶ月の苦闘の末にサイコロ演劇は挫折し、今は夢によってシナリオを書く、「明晰夢」芝居に取り組んでいるらしい。
「おはよう、皆実くん」私は挨拶した。「珍しいね、こんな早い時間に」
「昨日、洗濯物をランドリー室に置きっぱなしにしちゃって」
「それで手ぶらなのか」
二人でエレベーターに乗った。最近シナリオはどうと聞くと、役者は足りてますと丁寧に断られた。
「そんな冷たいこというなよ」
「小岩井さんは観客でいてください」
「わかったよ。それで明晰夢はどう?」
「それがちょっと妙なんです」
一階に降りると、集合ポストの前で、何人かの女性が集まっていた。大半は主婦のようで、眉をひそめて固まっている。何かを非難しているようだった。なんとなく気圧されて立ちすくんでいると、玄関から五反田が入ってきた。女性たちの脇を素通りし、私に気がつくと、挨拶をしながら近づいてきた。
「昨日は、というか、今日はですか、突然変なお願いをしてすみませんでしたね」
「いいえ」
「ちょっとそこまで女を送ってきたんですよ」
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