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「ねぇ」
白昼のテニスコート。試合を見ている夏帆の横顔に声をかけた。彼女は、私? という感じに少し首をかしげながら振り向いた。黒いつややかな長髪がふわりと揺れた。
「結婚しよ?」
おれたち二人の近くにたまたま人がいなくなった一瞬をつく、渾身のプロポーズだった。
夏帆は、なに言ってんだこいつ、とでも言わんばかりに眉間にしわを寄せ、即答した。
「お断りします」
お断りしますと言われて、はいそうですかわかりましたで済むほど、おれは物分かりが良くはない。
「えーなんで?」
一応聞いてみる。
「画数増えるので。めっちゃめんどくさいじゃないですか、齋藤って」
「ほう……」
とっさに思いついたにしてはユーモアがあってなかなか面白い。感心して、思わずため息が漏れた。
なぜだめだったんだろう。
好きな人がいる?
彼氏がいる?
それもあるかもしれないが、多分だけど、おれと夏帆が今日初対面だということが大きいのではないだろうか。初めて会った相手にその日のうちにプロポーズされてOK出す女性の方が、きっと珍しい。
思案を巡らせていると、
「齋藤さんってば!」
夏帆は、むっとした表情をこちらに向けていた。
「あ、ごめん。なに?」
「プロポーズしたくせに、私の話、全然聞いてないんですね。次試合ですってよ」
夏帆は、試合を終えたつっきーから、いつガットを張ったかわからないボロの共用ラケットを受け取ると、わざとらしく頬をふくらませてすたすたとコートに向かっていった。おれはベンチに置いていた自分のラケットをひっつかみ、慌てて彼女のあとを追いかけた。
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