第三章 変な虫

6/12
前へ
/43ページ
次へ
「さっき終わったので家に帰りますね……冗談ですよ。ちゃんと行くから待ってて」  夏帆からの電話。少し酔っているのか、いつもより声を張っているように聞こえた。  飲み会の店からイルミネーションのある通りまで、アーケード街を歩いてくると夏帆は言っていた。おれは待ち合わせ場所にしたライオンの像の前を通過して、夏帆が歩いてくるはずのルートを逆走することにした。立ち止まってのんびり待ってなどいられなかった。少しでも早く夏帆の顔を見たい。  眼球をぎょろぎょろと動かして、すれ違う人の顔をしっかり確かめていく。もし気付かず通り過ぎてしまったらどんな嫌味を言われることか。しかしこれではちょっとした不審者かもしれない。  程なくして、丹念に顔を確かめる必要などなかったということを悟った。気付かないはずがないのだ。視線が自然と吸い寄せられた。  襟にファーのついたグレーのコートの下からワインレッドのスカートがのぞく。白いニット帽。肩にかけたピンクのバックの紐を右手で押さえながら、颯爽と歩いてくる。 「久しぶり」  手を振って声をかけた。夏帆の対応はもはやお約束、空々しく顔を逸らしながらスルー。さすがにおれも慣れたもので、普通に話を続ける。 「飲み会どうだった?」  夏帆はハッとした表情を作った。 「変な虫だ。逃げよう」 「そういうあなたは芝刈り機じゃないですか」 「えへへ。照れる」 「実は気に入ってるだろ」 「的確なのでいい名前だと思ってる。ありがとうございます」 「そいつは良かった。じゃあ行こうか」  左手を差し出した。夏帆は右手で繋ぐ。当たり前のようにカップル繋ぎが成立していた。
/43ページ

最初のコメントを投稿しよう!

86人が本棚に入れています
本棚に追加