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蛍が出るらしい、と沙弥が言うので私はコートを羽織った。厚手の、『そこまで気合いを入れなくていいときの』コート。
冬で午後十時で寒い。手袋とマフラーと帽子とタイツを装備してブーツを履く。家を出てバス停まで歩くと沙弥が待っている。
「お待たせ」
「待ちくたびれたー。じゃ、いこか」
沙弥も私と似たような装備をしている。彼女は帽子が嫌いだからそれは着けていないが。
夜の住宅街は窓から漏れる明かりと街灯と車道を舐めるヘッドライトで賑やかだ。
もう少し暗くてもいいと思う。少なくとも、私が産まれた田舎はもうちょっと光が少なかった。その代わり、虫や獣がやかましかったけれども。
「都会に蛍、か」
私が呟くと、
「素敵だよね」
と沙弥は笑った。
冬の都会に蛍が出るらしい、と最初に言い出したのは沙弥じゃない。彼女の住むアパートの隣人が話してくれたそうだ。嘘をつくような人じゃない、と彼女は言う。
私の知る限り、沙弥はいままで誰にも騙されずに生きてきた。だからきっと、蛍はいる。
住宅街を過ぎて人道橋を歩ききると、そこに公園がある。恋川第四公園。けっこう広くて、森がある。
「森を抜けると恋川湖があるじゃない? その畔に蛍が出るんだって」
「恋川湖? あれに?」
「うん。逆に、現実味があるでしょ?」
それはそうかもしれない。
恋川湖は第四公園の森の奥に現れた謎のクレーターにブルーシートを敷き詰めただけの地点で、そのそばに『恋川湖』と看板が立っていたから、そう呼ぶほかなくなっている。誰がブルーシートを敷いて看板を置いたのかまったく不明らしい。
冬にだって、都会にだって、恋川湖にならたしかに、蛍が出てもおかしくないかもしれない。
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