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「いない。いない…」
しょせん夢。あるいは遠い昔の記憶。だとしても、決してこの人の顔を見てはいけない。
そんな思いが通じたのか、本来ならば自ら目を逸らすなどできない状態だろうに、夢の中の私は、女の人の手が開き切る前にぎゅうと目を閉ざした。
「…何で見ないのよ。憎たらしい子」
今まで以上に低くなった声にぶるりと全身が震えた瞬間、私の目は覚めた。
飛び起きた訳でもないのに呼吸は荒く、冷たい汗がまだ噴き出すのを感じる。それでも女の人の顔を見ずにすんだ事実に、私は安堵の息を吐いた。
この体験から数日後、母が『そういえば』と私に話を振ってきた。
この前私があれこれ聞いたから思い出したが、赤ん坊の頃の私は、時々何も存在しない空間を見てキャッキャッと笑ったり、どこかの一点を真剣に見つめていることがあったらしい。
「小さい子には、大人には見えないものが見えることがある、とか言うけど、アンタも何か見えてたのかしらね」
母のその軽口に、私はどうしても笑うことができなかった。
多分、赤ん坊の私には、見えてはいけないものが見えていたんだと思う。そして、たまたま決定的な場面を見ずにその何かをやり過ごせたようだ。
偶然だったのか、夢を通して、今の私が昔の私を動かしたのかは判らないけれど、どちらにしても私は助かることができたようだ。
今も耳の奥に貼りついている、あの女の人の引く重い声。あれを発したあの人の顔を見ることがなくて本当によかった。
いないいないばぁ…完
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