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「今日は、そのことを話したくて、ここへ来ました。
あの、俺——ここを出ます。
申し訳ないのですが、東條さんの気持ちには、応えることができません。
済みません。
ひと月近くも居候させてもらって、相談やら愚痴やら全部聞いてもらって……感謝も、お詫びも、いくらしても足りません。本当に。
ここに置かせてもらっていた私物は、数日中に全部片付けます。
——お世話になりました」
一気に言い切り、須和はがばりと深く頭を下げた。
全部一度に伝える以外、方法は浮かばなかった。
しばしの沈黙の後、伏せた須和の頭上に静かな声がかかった。
「……それ、まじで言ってるの?」
「……」
顔を上げられないまま、須和の額にジワリと冷たい汗が滲む。
願っていた返事とは違う抑揚のないその声音に、膝の拳が一層ギリギリと硬くなる。
「理由も何も話さないで、君の要求を俺に認めさせる気か?」
「いいえ、そんなつもりはありません」
再び顔を上げた須和を、東條は無表情に見つめている。
その眼差しの奥に、静かながら激しい怒りがゆらめいていることがありありと感じられ、須和は思わず息を呑んだ。
「——」
恐ろしさに目を逸らしかけて、須和はぐっと踏み止まる。
ここで怯んでは、二度と自分の希望を口にできなくなりそうだ。
「……今回のことを決めた経緯を、全部話します。最後まで聞いてください」
気持ちを鎮めるために大きく息を吸ってから、須和は真っ直ぐに東條を見つめ返した。
「——……」
須和の話を最後まで聞き終えた東條は、徐にテーブルのマグカップへ手を伸ばした。
すっかり冷めているであろうカフェオレを一口啜り、ふっと息をついて口を開いた。
「……で。
君は、堪りかねて他の男を頼らねばならないほどに君を苦しめたそのチャラい美容師のところへ、また戻るつもりなのか。……これからは、恋人として」
「——はい」
東條の問いかけに、須和は頷く。
「それはつまり、このひと月間君をここに置き、君の辛さや苦しみを全部受け止めてきた俺の努力を粉々に踏み躙るのと同義だ……それを理解した上での決断か?」
「…………」
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