一話  名無しの妖

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一話  名無しの妖

【一】 鼻緒(はなお)をすげて進ぜましょう  きらきらと光がおどる、初夏のこと。  (ほたる)は杖を片手に、里のほそい道を歩いていた。いつものように、山の中腹にある神社へまいった帰りだった。  とじた瞼の裏で、ちいさな模様が楽しそうにゆれている。つねに目をとじて暮らす蛍にとって、瞼を透けて見えるその模様こそが光だった。  桑畑にかこまれた道を、蛍はあぶなげのない足取りで行く。桑の木は、蛍の背丈ほど。盛々(せいせい)としげった青葉をゆらす風の音が、耳に涼しかった。  三河国、衣重藩(きぬえはん)。江戸から遠く離れた地に城を構える、二万石の小藩だ。そのさらに山奥に、蛍が暮らすコガイの(しょう)はある。  山深い里の道を、蛍はゆるゆると進んでいく。七十、七十一、七十二、と順調に歩数をかぞえ、百ちかくまできたときだった。  ふと、蛍は歩みをとめた。
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