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七篠さま、と耳元で蛍の声がする。
「七篠さま。つごもりの夜は暗いから……。きっと今は自分以外のものは何も見えないかもしれないけれど。でも、朝になって何か違うものが見えてきたら、そのときはどうか私にも、七篠さまが見た景色を教えてくださいね。楽しみにしています」
だから、あなたはここにいる価値がある。
そう全身で伝えて、蛍はまだ少し青い顔で微笑んだ。
そのためらいがちな笑顔を、彼はしばらく見つめる。
短く唸ってから視線を逸らし。
ずいぶん間をかけて、やっとのことで観念してため息をついた。
この世に生じてからこれまで、どんなものにも怯むことはなかった。
どれほど恐ろしい妖を前にしても退くことをしなかった。
その自分が、こんな何気ないことで完全に敗北してしまうとは。
そう認めることは不思議と悔しいとは思わなかった。
が、何だか一方的に蛍に抱きしめられているのは格好がつかない。
血で汚れた掌を自分の着物で何度も拭ってから、彼はそっと蛍の背にふれてみる。
やわらかいぬくもりを感じながら目を閉じると、意味もなく幸福であるような気がして、情けないやら心地良いやら。
またひとつ、ため息がもれた。
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