一話  名無しの妖

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【十】  名無しの妖は、名を手に入れる  明け方の空気は水気をふくんで、しっとりと潤んでいる。  朝露が青い桑の葉の上で、綺麗に光っていた。  気を失うように眠ってしまった蛍を背負い、彼は神社の石段を下りて行く。  まだ薄暗い道を歩いていくと、東の空が藤色に明けはじめた。  里の景色はすっかり元のおだやかさを取り戻していた。  と、目を覚ました蛍が、彼の背で何やらじたばたしはじめる。  ひとに寄りかかることに慣れていないのか、背負われている格好が落ち着かないらしい。 「姫、御前」 「はい?」  ゆっくりと目覚めはじめた里に、細く煮炊きの煙が立ちのぼる。  のんびりとした光景はあまりにも自分とはかけ離れているように思われて、彼は目をそらした。  どんなにおさえ込もうとしても、自分の本性は妖だ。  妖の正体を隠したまま、蛍に嘘をつきつづけ、それでも……。 「俺はここに……」  蛍のそばに。 「いても良いのだろうか?」  柄にもなく不安な気持ちで尋ねると、蛍はしみじみとした声で答える。 「気に入ってくださったなら、どうぞいつまでも。何もないところだけれど、ここは良い里です」 「………………」  それは訊きたかったこととは、少しばかり違う答えだったのだが。  蛍はやはり、肝心なところで的外れだ。  脱力した彼の腕から、蛍がするりとはなれていく。  数歩先へ進んでふり返った笑顔を、生まれたばかりの朝陽がいきいきと照らした。  行きましょう、七篠さま。と蛍が呼ぶ。  その声に、彼は苦笑して応えた。  そして、名の無かった妖はゆっくりと歩き出す。  この世にただひとつの自分の名が、胸にくすぐったく響いていた。
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