一話  名無しの妖

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「小吉くん?」 「あ……、いえ。なんでもありません。さあ、早く着替えてください。風邪をひきます」  小吉の声は、心なしか震えているようだった。  蛍は玄関の式台へあがりながら、軽く首をかしげた。  蛍から逃げるように、小吉は廊下の先へと歩き出す。 「そういえば。俺、さっき二階の様子を見てきたんですけど……」  そう言った声は、取り繕うように明るかった。  常になく、小吉の様子は落ち着きがない。  少し気にはなったけれど、深く追求するのも何だかはばかられる。  迷いながらも、蛍は小吉に調子を合わせてあいづちをうった。 「そう。もう七日目になりますね。どうでした?」 「順調です。さすがは春蚕(はるご)ですね。綺麗に糸を吐いていますから、明日には繭かきができそうです」  やっと普段の溌剌さを取り戻し、小吉は嬉しそうに笑った。  ───コガイの庄は、養蚕(ようさん)の里。  今、この屋敷の二階では、(かいこ)(まゆ)のなかで静かに眠っている。  里のほとんどの家がそうであるように、蛍の屋敷の二階も蚕の部屋になっていた。  人が手をかけてやらなければ蚕は生きてはいけない。  そして、蚕が上手く育ってくれなければ、里の暮らしはたちまち立ち行かなくなってしまう。  たくさんの蚕の命で、コガイの庄はなりたっているのだと思う。  そんなことをつらつらと考えながら、蛍は座敷で雨に濡れた着物を着替える。    しっとり水気をふくんだ髪を拭くと、やっと人心地がついた。  意識はしていなかったけれど、どうやら気が張りつめていたらしい。  何しろ、里の外の人と話をするのは久しぶりのことだったから。  笠を渡してしまって、あの人は雨に困らなかっただろうか。  通り雨は、すでにやんでいる。  濡れ縁から気持ちの良い風が吹きこんで、蛍の髪をゆらしていった。  あの旅の人も、どこかでこの雨上がりの風を感じているだろうかと思った。
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