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坂道にまっすぐ影が、伸びている。
甘いかおりがあたりに、ふわりと漂う。
あ、始まった。
子供たちが、騒ぎ出す。
おなかすいたね。
おなかすいたね。
あちらこちらで聞こえる声に、足をとめた。
頬が痛くなるような風に混ざって、濃厚なかおりが鼻をくすぐる。
「今でも、私は浮気相手ね」
そんなことを言いながら、僕の隣に立っている女性が呟く。
影がだんだんと凹凸を見せて、それらしい形になってゆく。かろうじて頭、身体、手足となってゆくそれは、真っ黒ではなく、やや焦げ茶色をしている。
影は、先日事故で亡くなった、某ショコラティエが住んでいたマンションに向かって伸びている。
呟いた女性は、かつて、彼の奥さんだった人だ。左手薬指には、いまでも、指輪をはめている。縁取りは、影と同じ色をしている。
「あの人が一番すきだった、カカオ65%のチョコレートと同じ色です。半分よりちょっと多めにしている理由は、僕が先に、君を好きになったからですって」
すっと、彼女が手を伸ばす。
ゆるゆると影が起き上がり、その手を求めるように、手を、腕を、上半身を浮かせてくる。
これじゃ、僕には勝ち目はない。だからバレンタインは嫌いだ。大嫌いだ。
ずっと想っている人を、僕は手に入れられないから。
ため息まで、甘くかわる夕暮れに、僕は苦笑する。
ショコラティエは僕の友人だった。幼い頃からずっと。
夢を叶えたあいつがうらやましくて、自分と比べるときらきらしていて、悔しくなった。
知っているんですよ、貴方が。
彼女はチョコレートにまみれた手で、僕の頬を撫でる。
まなざしが焦げ茶色に染まる。
もう、嘘がつけない。
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