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「美空の絵って写真みたいだよね」
初めてそう言われたのは、いつのことだっただろう。記憶が遠すぎて、よく覚えていない。数え切れないほど何度も聞かされた言葉で、誰に言われたのかさえ定かではない。
放課後、部活動が始まる前の傾き始めた日差しに美術室の壁が照らされている。そこには生徒たちの作品が貼りだされていて、その一枚に「校庭 結城美空」と書かれたカードが添えられている。
昼の校庭の柔らかな陽だまりは、画用紙の上でも現実のものと見紛うほどの鮮やかさだ。美空が美術の授業で描いたものである。
美空は少し壁から離れて、他の生徒の作品と自分のものとを比べてみる。全然違う。
パースとかデッサンとか、技術的なものは美空のほうがずっと上だ。美空は小さい頃から絵ばかり描いていたのだから当然だ。けれど、なにか足りない。綺麗は綺麗だけど、それだけ。
周りの作品はもっと「キラキラ」している。この絵を描いた人は、ここを描きたかったんだろうな、とか、これが好きなんだろうな、とか。描いた対象への描き手の想いが、拙さの中にも溢れるほど込められている。
美空の絵には、それがない。
だって仕方がない。美空は絵を描くこと自体が好きなのだから。
なにを描こうとか、なにを伝えようとか、目的があって絵筆を握るわけじゃない。美空にとっては、絵筆を握ること自体が目的で、絵の具で見たままのものを画用紙に描き出す作業こそやりたいのであって、作品は副産物なのだ。
写真みたい。
なにを描きたいのか、なにを伝えたいのか分からない。
そんなふうに言われたって、美空自身そんなことを考えてはいないのだから困る。
「どうして、みんな……絵の描き方を、決めつけるの……?」
自由に描かせてほしい。だけど、せっかくできた作品が誰にも理解されないのは、寂しい。
美術部の顧問の先生に相談したら、美空にも描きたいと思えるものがきっとあるはずだから、探してみるといいと言われた。
そうして見つけたのが夏の野球部の試合だった。あのとき確かに、自分の絵は写真に表現できないものを表現できると感じたのに、肝心の表現したいものにまだ出会えない。
美空の中は空っぽで、誰かに心の底から伝えたい、叫びたいことがないのだ。芸術が爆発なら、美空には熱量が圧倒的に足りていない。
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