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(10)  薬師が去り、沈黙が落ちた部屋に、王子アルトナルの溜息が、ひとつ震えた。  古木から削り出した小卓の上、王子は、ぽつりと残された薬袋を見やる。  これまでの煎じ薬とは異なる、粉状の薬のようだった。  服用に手間のかからぬよう、工夫をしたのだろうか。  いずれにせよ、多少でも、以前より効けばよいのだが……。  革袋を手に取り、アルトナルは苦笑にもならぬ吐息を洩らす。  そして、よろめくように立ちあがって扉を開け、続き部屋の寝室へと入った。  着替えのための従者も召さず、着丈の長い執務の正装のままで、力なく寝台に横たわった。  ――男としての欲望が御身を焦がすことが有りや無しや。  いましがたの薬師の問いが、脳裏を巡る。  知らず、アルトナルの手が上衣の合わせ目へと滑り入った。そして、二重の下穿きを押しやり、下腹部へと降りる。  その指先が触れるのは。  ――引き攣れた傷跡。  王子が、その気高いくちびるを歪める。  そこに……両脚の付け根に、本来ならば「あるべきはず」のものを探すように、行き場をなくした指が掌が、やるせなく鼠蹊部を撫で回した。 「王子の精により、子をなす方策は見当たらぬ……としか、申し上げるほかはなく」  それはアルトナルにとっても、予想に難くない「答え」だった。    あのように簡素で手薄な戦場の幕屋にあって、手伝いといえばシグルドのみの状況で。  これほどの深手を見事に処置しおおせた、医師としての技量と知識。    そうであろう。「あの」薬師が言うのであれば。  他に方法などあるはずもない――  「絶望」を手ずから、あらためて明確な形にしただけのこと。  そんな不毛な問いを悔やむ気にもなれぬほど打ちひしがれて、アルトナルはくちびるを噛みしめ、瞼をきつく閉じる。  そして引き続き、その指がたどるのは。  かろうじて、排泄の用途には不自由せぬよう、縫い合わされた傷跡。  それは緩く低い小丘を形づくり、淡い金の薄い下生えに隠されている。  その部分を、己が目にせざるを得ないときはいつも、  まるで「女の場所」のようではないか……と。  王子は、心中で呪いの侮蔑を呟かずにはいられなかった。  もうすでに、日常になりつつある疼痛。  もはや、それが身体を苛むことがなかった頃が、遠くかすんで思い出せぬほどに。  そして――  その痛みに紛れるような、尿意とも似た感覚が湧き起こってきた。  「傷が発する熱」と混ざり合い、一体となるような火照りが。  王子の指が、傷をまさぐっていく。  突き上げてきて痺れる、このジンとした感覚が、一体、身体のどこから湧き出しているのか。  アルトナル自身にすら、判然とはしない。  それでも、どこかなにか「特別な場所」を見つけようと、指先はまだらな丘地の稜線を緻密になぞりつくす。だが――  見つかりはしない。  見つかるはずもない。  募る熱は、ただひたすらにやるせなく、王子は奥歯を強く噛み締めた。  足りず、捲り上げた上衣の裾を口に含んで、強く噛みしだく。  掌が、無様に崩れた陰嚢(ふぐり)に触れた。  それを掴んで、脚の付け根をさする。  しかし。  王子の下腹の内で、芽吹き萌えだしそうに渦巻く「何か」は、どこにも辿り着く場所を持たず――  この欲望は、どこにも辿り着くことはできない。  絶対に、どこにも。  辿り着くことはかなわない――  どうすることもできぬままに、アルトナルは敷布に肌を擦りつけながら、全身をしならせ息を殺す。  いつだったろう。  そうやって見悶えた拍子に、ふと、布地に擦れた「胸の頂き」が小さな炎を拾い上げた。  しばしば戦さ場で、騎士が試みることがある――  受傷による身体の大きな痛みや痒みや、その他の不快さを紛らわせるため、そことは別の、遠く隔たった身体の箇所に意識を向けるのだ。  ことによっては、傷とは別の場所を殴ったり斬りつけたりと、物理的に強引に気をそらすこともあった。    それと同じように――  下腹部を爛れさせる「何か」から、どうにかして気をそらさせるために、アルトナルは、その「微弱な炎」を必死に煽り立てるようになっていた。  男の肉体には、まったくもって「無用」なその場所を。  屈強に張り詰める筋肉、逞しい骨格と比すれば、みすぼらしいほどにちっぽけな「その部分」を。  自らの手指をもって弄ぶことは、あまりにも惨めすぎて。  アルトナルは、ただ身体をうごめかせ、布地とのわずかな摩擦を拾うことによって、その灯をともし続ける。  だが、そのごくごく小さな光に、必死に意識を凝らせども、込み上げる熱量の大きさにはとても及びはしない。  ただひたすらに、王子は痛めつけられる。  ――眠れ、アルトナルよ。  王子は己に強く呼びかける。  眠れ。眠るのだ。  この苦しみら逃れる術は、それしかないのだから――  「痛み」ですらない。  だか痛みよりも激しく心を苛み続ける、名もなき「何か」。  それを紛らわせる術もなく。  すがるような指先は、薬師が残した薬へと、傷の疼きを沈めるという薬へと伸ばされた。
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