第1章

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「まだ支えなしでは乗れなかったんだ。絶対に離さないで、絶対に離さないでってお願いしているのに全然違う話しをするんだ」 「全然違う話?」とパンを食べていた愛梨は手を止めて尋ねた。 「例えば、拇指対向性の話やなんかをする」 「へえ?」 「人間の親指は他の指と反対を向いていることで発展してきた。これを拇指対向性という。ほかの霊長類にはない人間独自の特徴だ。「チンパンジーやゴリラはものを握ることはできても掴んだり、摘んだりすることはできない。これがなければわれわれはいつまでたっても文明を発達させることはできなかっただろう、みたいな話をずっとする。まるで親指が他の指と対向方向についているのは自分の功績だって言いたいくらい自慢げにね。それですっかりこっちが話に夢中になったタイミングで手を離すんだ」 愛梨はそれを聞いておかしそうに笑い転げた。 「笑い事じゃない。すぐに転んでお陰で前の歯が抜けた。まだ乳歯でよかった」 「いいお父さんじゃない。いかにも哲学の先生っぽくて」 「拇指対向性の話から、疫病とインディアンの話、カモノハシの生態の話、ぼくが一輪車に乗っているときにそんな話ばかりするんだ。うっかり話に集中したときに手を離す。乗れるようになるまでに一ヶ月もかかったのはきっとそのせいだ」 愛梨はぼくの話を笑いながら聞いていた。彼女の笑い声を聞いていると幸せな気持ちになれた。 初めて一輪車に乗れたときのことを思い出して、ぼくもおもわず笑みがこぼれた。「ほら、乗れたよ。お母さん!」と照明の下のベンチに向かって声をかけた。彼女はグレイのコートを着て、こちらに手を振って喜んでいた。免許を持っていない父の車を運転するのが彼女の役目だった。 父はローマ帝国の治水技術がいかに発達しており、上下水道が混じらないよう配慮されているかについて話していたが、父の話など聞き流せばいいのだ。それに気がつくまでに長い時間がかかってしまった。
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