第1章

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あなたの音楽の趣味ってなんだか古いわね。 愛梨がぼくにそう言ったのも無理はない。ぼくの音楽の好みは1960年代のジャズスタンダードナンバーに集中している。流行のポップスやロックの代わりに、カーステレオからエラ・フィッツジェラルドやナット・キング・コールのウェン・ユー・アー・スマイリング、ケ・セラ・セラなんかが流れれば、誰でもそう思う。 古いものは廃れない、というのがその時のぼくの抗議だった。でも、もちろん廃れないものなんかない。ぼくたちは毎年1つずつ年をとるし、黙っていても体は老朽化する。廃れないものなんかない。 春になって久しぶりに父の家政婦から連絡がきた。とうとうダメかもしれない、そう告げられたときですら、ぼくは父に対して一切の感情を持てなかった。不思議なほど心は穏やかなままだったし、まるで現実感というものがなかった。遠い海の向こうでスペースシャトルの打ち上げが延期になりました、と聞いたような気分だった。ぼくが気になったのはあの家に残された大量のレコードとオーディオセットをどうするか、ということだ。コンパクトディスクプレーヤーすら久しく見かけなくなったのに、どこのだれが巨大なウーファーと真空管アンプで構成されたレコードプレーヤーなんかに興味を持つだろうか。手のひらサイズのスマートフォンに何千曲も保存できる時代に、たった数曲聞くために顔よりも大きなLP盤が必要なんて、時代錯誤も甚だしい。 駅前のカフェでぼくは遺産の配分について考えていた。部屋の調度品はきっと値段がつくだろう。土地は固定資産税がかかるからいっその事更地にして売り出すか?しかし、そうなればあのレコードプレーヤーの処分先を見つけなければ。ちょうどいい具合にジャズ喫茶を開こうとしているオーナーがいればいいんだけど。そこまで考えてから、ぼくは苦笑した。どうして俺はあんな骨董品を残そうとする父親と一緒に綺麗にぜんぶ更地にすればいい。なにを悩む必要がある?お前はそうして生きてきたじゃないか。 考えに没頭していて、浅田がカフェに入ってきたことに気が付きもしなかった。ぼくが顔を上げたときには、彼はぼくの前の席に腰をかけようとしているところだった。 「助かりましたよ、石野さん。今日は休暇と伺いましたが」 ピンストライプのジャケットにレジメンタルタイをきっちりしめた浅田が笑いかけた。よく訓練されたビジネス向けの笑顔だ。
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