第1章

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九州の実家に思いを馳せていたぼくは目の前のできごとに戻るまでに少しだけ時間がかかった。浅田にやっとのことで笑顔を返した。 「ええ。そうです。でも浅田さんのご自宅が私の家から近かったもので。それに、家政婦がいないと何かとご不便でしょう?」 「まあね。うちの家事はあれに任せきりですから」 「お約束の通りになっています。証拠として奥様に使用される恐れはこれでありませんよ」 ぼくはテーブルの上のメモリを彼の方に少しだけずらした。小指の先ほどの大きさで、黒く、目立たないものだが、この中に一つの宇宙とでも呼べるほどの情報量が詰まっている。浅田がそれを受け取ってすぐに立ち去ることを期待していた。休暇の続きに戻らなくては。考えることはまだ山ほどある。しかし、浅田はそれを生まれて初めてみた奇妙な物体であるかのように眺め、それを無視して受け取ろうとはしなかった。 「お手間だったでしょう?」 「いえ。まったく。近頃はそういう依頼が多いもので。まあ、慣れたものですよ」 「なるほどね、世の中が便利になるとそれと同時に別の手間が増える。おかしなものです。これから空港へ?」 浅田はぼくの後ろに小さなスーツケースが置いてあるのを見ながら言った。 「ええ、そうです。田舎が九州にありまして」 「羽田でしたらこれから送りましょう。今の時間ならそれほど道も混んでいないでしょう」 「いえ、そんな。それは申し訳ないですよ」 ぼくは断ろうとしたが、浅田は有無を言わせない調子だった。 「事務所が空港の近くですから。なに、ついでですよ。これから出発しましょう」 彼はそう言うと笑顔でようやくテーブルの上のキーを手に取って立ち上がった。
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