第1章

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ぼくの音楽のセンスが古いのは、育った環境によるところが大きい。父は家にテレビを置くのを嫌がったので、娯楽はもっぱらラジオと音楽、それから本だった。 父が仕事でいない間は彼女の子守唄を聞きながら時間を潰した。特にエプロンを締め、台所に立つ背中を見るのが好きだった。歌声はよく通ったし、その声に包まれているとぼくは安心した。 規則正しいリズムでまな板の上の青菜を刻み、ぐつぐつと湯気の煮え立つ鍋のなかにそれを入れ、別のコンロで炒め物をする。それはまるで魔法を見ているようだった。 彼女が歌ったのもジャズ・スタンダード・ナンバーだった。彼女がそれを好んでいたのかは分からない。もっと別の歌を歌ってくれたのかもしれないけれど、記憶に残っていない。 「ねえ、お母さん。ペーパームーンってなに?」 英語の歌詞はわからなかったので、それがジャズ・スタンダードナンバーだと知ったのはずいぶんたってからだ。 「紙でできたお月様のことですよ、ぼうや」 ときどきぼくは彼女の仕事を中断させて質問をした。彼女はそのたびに手を止めてこちらを向いて微笑んだ。 こども時代を思い出す時、ぼくはいつも彼女の笑顔と歌を思い出す。
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