第1章

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浅田の家政婦が運転する車はスムーズに湾岸自動車道を進んでいった。ビルの谷間から東京湾が見えるのをぼんやりと眺めていた。朝の太陽が海を照らしている。月は朝の到来で輝きを失い、場違いなパーティーの参加者のように空に浮いていた。 大学を出てからすぐに今の事務所に拾ってもらった。働きながら3度めの司法試験に合格して弁護士になり、もう十年になる。意欲のある同期の中には独立して自分の事務所を構えている者もいる。あるいは、企業の法務室で働いている者もいるし、法曹とはまったく関係のない分野で働いている者もいる。 仕事は嫌いではないし、やりがいを感じないこともない。でもときどき、書割の月の下でせっせと偽物の城を築いているような気持ちになる。いつかいままでのことは全部嘘でした、と手のひらを返される日が来るのではないかと感じることがある。 「結婚してからもいつも笑顔で、というわけにはいきません。時の流れというものは残酷なものです。失礼ですが、石野さんはご結婚は?」 「いえ、していませんし、今のところ予定もありません」 「なら思う存分仕事ができるわけだ。羨ましい限りです。若い頃はシンプルでした。働けば働いただけ実績ができる。評価も上がる。次はもっと大きな仕事が来る」 それから、よりゴージャスな若い女も寄ってくる。とぼくは心の中で付け加えた。 「年をとるに従って世の中は複雑になっていきます。いろいろなしがらみに絡み取られることになる」 「でも少くともそのしがらみの一つは取り除くことができた」 ぼくは少しだけ意地の悪い気持ちになってそう言ったが、浅田にそれは通用しなかったようだった。 「その通りです。あなたの助けのおかげで」 彼の言葉に毒気はなかった。それで、仕方なく「恐れ入ります」と答えた。
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