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頬を撫でたのは、夕方の匂いを乗せた風だった。ゆっくりと覚醒していく耳に遠くひぐらしの声が届く。終わりかけてなおしぶとく居座り続ける夏を、まとめてごっそり荷造りしてしまうような音色だ。朝夕はもうだいぶ涼しくなってきたが、日中はまだまだ三十度を超える。夜中までうだるようだったころを思えば、確実に秋は近づいてきているはずだったが、この夏が終わることを今は想像することさえ難しい。  悠馬は、寝転がっていたソファの上で小さく伸びをして、まぶたを上げた。思いのほか、深く眠ってしまっていたらしい。壁にかけた時計は十六時半を指している。あくびを噛み殺しながら身体を起こすと、寝る前にはそこになかったはずのタオルケットを掛けられていることに気が付いた。そういえば、と窓の方を見ると、吹き込んでくる穏やかな風が、ゆったりとカーテンを膨らませているところだった。それをぼんやりと眺めるうちに、窓のカギを閉めた記憶が指先の感触と共に甦ってきた。なんで開いたんだ? と思いながら、腕を伸ばして窓を閉める。 「……クロ?」  呼び掛けてみたが、室内には悠馬以外には誰も……何もいないようだった。だとしたら、よほど寝こけていたのだ。しまったな、と掌で額を押さえる。悠馬は、そして大きく一つ息を吐いてソファを立ち、その部屋を出た。  隣室の扉の前に立つと、案の定中から微かな物音が聞こえてくる。彼だ。ノックしようと上げかけた手を、ふと思い直して扉に押し当てる。悠馬は、その向こう側に再び「クロ?」と呼び掛けた。返答はない。その代わりに、ぱたりと物音が止む。  ややあって、ドアノブが内側から回され、扉が開いた。顔を出したのは、三十代を半ばも過ぎたころの温厚そうな男。クロだ。無造作に肩まで伸ばしたまっすぐな髪をさらりと揺らして、黒目の大きな瞳をすがめるようにしてふんわりと笑う。 「ゆう」 心地よいアルトの音色が悠馬を呼んだ。 「……窓、閉まってなかった?」 「ゆうが開けてくれただろ」 そうだっけ、と思いながら室内に入る。見ると、机の上に置いたノートパソコンが立ち上がっていた。何か調べものでもしているのだろう。
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