第1章

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「また、書きかけの卒業論文の夢かよー。原稿に足が生えているように、いくら逃げても凄いスピードで、モタモタと逃げている俺を追いかけてくる。いい加減にして欲しいよ、ったく! でも、いくら大声でぼやいても、今までの経験からして、悪夢が、記憶から消えてなくならないのは、俺自身よく心得ているが……。コンチクショウ。バカタレ。気味の悪い夢が、肌にまだまとわりついているようだ。クソー、体から悪夢が抜けないぞー。昨晩も徹夜で『経済学方法論とその確率的合理性』という卒業論文に挑戦していたが、ペンは遅々として進まないし、おまけに金縛りにも苦しめられた。……ったく、俺は踏んだり蹴ったりの目にあわされた!」  普通の人間の肺活量では、こんなにも長いセリフを大声で喚く事なんて、とても不可能だ。  そう――勉は、常人ではないのだ。恐らく、外見上では誰も区別なぞ出来ないだろうが。  今度は、積もり積もったストレスを、窓と反対側に大声で吐き捨てる。そこは緑のモルタルの壁だ。  その時だった。このアパートに四年ほどしか住んでいないのに……モルタルにヒビが入っている箇所を見つけ、彼は、ほんの一瞬だけ思った。 「アホタレ大家に、文句を言ってやろう!」  それ程に、勉は、細かな事に気がつく神経質タイプだ。しかし、その時、筋骨隆々のたくましい、まだ三十歳代の大家の姿が脳裏に浮かんだ。腕力で戦っても、勝ち目がないのを自覚していた彼は、自分の意気地なさを、心の中でうまく正当化したのだ。 (俺は、無駄な争いはしない主義だ! 誰よりも、平和を愛している人間だ! ここで、引き下がるのが、真の男だろう! うん、そうだ、そうに、間違いない!)   金縛りには、閉眼型と開眼型の二種類があるが、勉は閉眼型である。だから、目を固く閉じているのに悪霊……などが見える。  彼はとても恐怖に敏感である、端的に言えば、極度の怖がりだ。重いストレスを、背負い込むと、幼い頃から、必ず金縛りに苦しんできたのだった。  昨晩、徹夜して論文を書いていた筈だったが、机上にはヨダレが作ったとおぼしき小さな池があった。つまり、短い時間だろうと思われるが、深淵な眠りの世界に落ちていたのだ。
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