第1章

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 数十分後、やっと体調と理性を取り戻した勉は、普通の人間が体の半分を窓に通すなんて不可能な技だ、と思った。が、理性は次第に痺れたように働かなくなってきて、思考停止状態に陥ってしまったのだ。またしても、急に悪寒が背筋を走り、冷気が体中を襲う。同時に、猛烈な死臭で、更に一層の強い吐き気さえ込み上げてくる。腐った卵のような悪臭が、直接、彼女から勉めがけて漂ってきたからだ。鼻の中に、腐った液と体液が混ざり合ったような死臭が、無理やり入り込んでくる。腐敗した匂いを伴う臭さで、胃は冷たく縮み、鼻から脳へと痺れたような奇妙な感覚が伝わり、体中から冷たい汗が噴き出すのを、勉は感じた。  彼女は、周囲に負のオーラを漂わせていたのだ。    まさにその時だった。  彼女が、ガラス窓から全身を侵入させ、身の毛も逆立つ正面を勉に向けたのは!   部屋中に、凄まじいまでの怨念と破壊と混沌が、その女性全体から漂っているのを、勉は敏感に察知した。何もない空間に浮かんでいるその姿を間近で見て、ギヤーという悲鳴を出したかったが、全身の筋肉を動かせなくされている為に、声すらも出せない状態だ。彼女は、とてもこの世のものとも思えぬような凄絶さに満ち溢れており、その顔には鬼相がうかがえる。  彼女の全身は糜爛≪びらん≫しいて、ミイラになる一歩手前だ。その証拠に、死亡して数週間経過したような血や膿≪うみ≫の匂いを、辺り一面に発散させているのだ。  その口元には、何とも表現出来ないような、ぞっと身震いさせる、薄暗い笑みを張り付けている。椿をモチーフにした、高級な結城紬≪ゆうきつむぎ≫の着物は、腐ってボロボロになっている。彼女の前髪は、殆んど抜け落ちていて、目は、腫れて真っ赤に爛≪ただ≫れている。  彼女は、あたかも、田宮伊右衛門≪たみやいえもん≫が士官するため、毒を盛らせた、「お岩さん」のようだ。――鶴屋南北≪つるやなんぼく≫の描いた「四谷怪談」で有名なお岩さん、そのものだ――
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