A.D.2206

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 今日は特別な日だ。  何の変哲もない普通の平日。この世の大多数の人にとって取るに足らない、カレンダーの黒字の部分。  それでも、今日は特別な日なのだ。少なくとも、ぼくにとっては。  死に場所探しの小旅行から一夜明け、ぼくは帰ってきた――こう書くと奇妙だろうか。ともかくぼくは今、ちゃんと生きている。  ただの一日で日常に劇的な変化が起こるでもなく、あたりまえに陽は昇って残念ながらまた仕事で、帰りはいつも通り遅い。心底イヤになるまで繰り返してきた無間(むげん)ループ。でもぼくは今日、そこにようやくほころびを与えることができた。 『辞めます』。その一言を伝えるのに、一体どれほど時間を費やしたか。なぜこれほど時間を費やしたか。    毎日押し迫る業務にそれこそ押し潰されていたぼくは、まともな思考力を失っていたに違いない。現状を生きるか死ぬかの二択でしか考えられない、そんな状態だった。  ただの一日で日常に劇的な変化が起こるでもなく、しかしながらぼく自身の心境には確実に変わりゆく部分ができている。小旅行のさなかに出会った一人の老人……の、姿をした何者か。全ては彼のおかげだ。  これまでを思い返すに、ちゃんとした人との関わりがすっかり失せていたのかもしれない。人と会うといえばたいがい職場で、その職場の上司からは叱責、同僚とは足の引っ張り合いと、お世辞にも良い雰囲気とは言い難かった。自分だけはと殻に閉じこもってみても、すぐに居た堪れなくなるのが常だった。  それがどうだろう。あの老人と交わした、ほんのわずかな――しかしまぎれもない『双方向の対話』が、ぼくをどれだけ落ち着けてくれたか。  ぼくは結局、真っ当な誰かとの心の触れ合いに飢えていたのだ。  負の感情から滲む毒気に中てられ、いつしか人間らしい欲求や願望さえ押し殺して忘れてしまっていた。無感情、無感動でどうにか死なずにいるだけのもの、それははたしてヒトと呼べるだろうか。人工知能のちょっと優れたロボットと、どう違うだろう。  これまでの空虚な時間には後悔が多分に含まれるし、これから先、さしあたって次の職場がどうなるかも不安だ。けれども、そのどちらも長らくぼくの中から消え去っていた感情だ。  ぼくは思う。ようやく喜怒哀楽、悲喜交交取り戻して、もう一度ヒトとして生きていけるスタートラインに立てたのだと。
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