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公立北都高等学校の生物教師・秋月 衛(あきづき まもる)は、3年2組の教室に入るや否や、違和感を覚えた。
あの生徒が、いない。
いつも授業中に何かをやらかしては、衛に小言を喰らうあの男子が。
「陽(ひなた)は、どうした」
教室全体を見廻し、誰に問うでもなく訊いてみた。
「朝は、いたよな」
「隠れて、また早弁してるんじゃないですか?」
「衛先生に見つかると、ヤバいから」
どっと、クラス中に笑い声が響いた。
やれやれと頭を一掻きすると、衛は教卓の上に授業の準備を始めた。その後を追うように、生徒たちのテキストを開く音やノートをめくる音、文具のかちゃかちゃ鳴る音が続いた。
この3年2組の副担任を務める衛は、生徒みんなを名前で呼ぶ。そんな彼を生徒たちも慕って、苗字ではなく名前で『衛先生』と呼んでいた。
3月の卒業を間近に控え、生徒ほとんどの進路が決まっている。単位や出席日数を規定通り満たした者は登校する必要がないため、ぼちぼちと新しい世界へ旅立つ準備を始めていた。荷造りをしたり、自動車学校に通ったり。アルバイトを始めてみたり。
だが生徒はみな、生物の授業だけは受けに来る。衛先生に、会いに来る。
勤勉で律儀で、常に新しい情報や学説を解かりやすく教えてくれる衛先生。時折まるで見当外れのボケをかましても自分では全く気づかず、笑いこける生徒たちをぽかぁんと眺める衛先生。
漆黒の長い直毛を一束に結んで流していても、それは何か勘違いしている嫌味な大人のオシャレには見えず、まるで潔い武人のような佇まいを醸している。
飾らず、気負わず、そして相談事には真摯に向き合ってくれる衛先生は、愛すべき先輩として多感な年頃の高校生たちにも認められ、親しまれ、受け入れられていた。
しかし1人だけ、そんな衛にも噛みついてくる跳ねっ返りがいる。
それが、橘 陽(たちばな ひなた)だった。
今日の受け持ちの授業は、3年2組で終了。午後は、年度末を迎え山のようにある事務仕事に専念するつもりだった衛だが、足は自然と校内を巡り始めた。
「ヒナタのやつ、一体どこに行ってしまったのやら」
午後の教室をそっと覗いてみたが、席に戻っている気配はない。と、なると……。
屋上、保健室、収蔵庫、放送室。
中庭の木陰……は、まだ寒いから居ない、と。
残るはあそこか、と衛は温室へ向かった。
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