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あぁ、猫だ。
そのしなやかな体。柔らかそうな白い肌。ひとつに結ばれ、細くすぅっと伸びた明るい栗色の長い髪は、尻尾に見えるのだ。
「時々なら、いいよ」
「ありがとう」
おそらくは、すでにこの温室の主であろうこの猫に、衛は礼を言ってその場を去った。
彼の口から、名はヒナタというのだと聞くには、もう少しだけ時間がかかった。
そんな出会いを振り返りながら、衛は温室へ入った。
初めてここに立ち入った日も、こんな風に穏やかな晴れの日だったっけ。季節は巡り、また春を迎えつつある温室は暖かく、水と緑の香りに満ちていた。
色とりどりのランに、大きく育ったヤシ類。斑入り葉が美しいジンジャーやドラセナの仲間に、葉の形の面白いサトイモ科の植物たち。
どれも衛が3年もの間、手塩にかけて育て上げた温室の住人たちだ。
いや、俺だけの力では、とてもここまで美しく育たなかっただろう、と思う。
優秀なアシスタントのおかげだ。
そしてその最奥には、やはり革のソファがあの時のままにある。そこに眠る、人の姿をした猫もまた、あの時のまま。
「ヒナタ、起きろ」
「ぅん……」
寝ぼけ眼で瞼をこするその姿は、まさしく猫だ。 このところ、ご機嫌斜めではあるのだが。
「風邪をひくぞ」
そっと優しくかけられた衛の声にも、ヒナタは噛みついてくる。
「せっかく、いい夢見てたのに!」
「どんな夢だ。聞かせてくれないか?」
「……ヤだ」
ぷぃっとそっぽを向いてしまう陽だが、彼は彼でこの困り顔の生物教師に言いたいことはあるのだ。
どうして。
どうして、なぜ生物の授業を受けに来なかった、と叱ってはくれないんだろう。
叱られれば、次の授業はもっと受けやすくなるのに。叱られたから仕方なく来てやったんだ、と言い訳ができるのに。
ヒナタは、誰より衛に懐いていながら、誰よりこの男が苦手だった。
気が向けば笑いかけ、気が向けば無視し、そして気が向けば話をした。
そんな陽を、いつも大きく広く、深く受け止めてくれる衛。その寛容な心が、くすぐったかった。投げかければ必ず返って来る愛情に、照れた。
これまでにも、そんな相手がいないでもなかった。
だが衛は、今まで出会った人々の誰より陽のわがままに付き合ってくれたし、誰より陽を大事にしてくれた。誰より好きな人だった。
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