ドーナツホールの向こう側

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きっと今日は特別な日に違いありません。 とても、うれしい事があったのです。 僕は、甘いものが好物です。特にドーナツに目が無いのです。 毎日同じ時刻に運ばれてくる食事の後、今日はデザートにドーナツがついてきたのです。 僕の好きなドーナツはシンプルなオールドファッション。 歯を立てると、サクリと音がして咀嚼すればうっすらと卵の匂いが鼻に抜ける。そんな素朴な味が気に入っています。僕の母がよく作ってくれました。 この場所に住むようになってもう何年も経ちますが、こんなご馳走が出たのは初めてでした。 口の中に残る甘い味を堪能しながら平凡だけど退屈な毎日に何か変化が起こるのではないかと浮足立ちました。 そんな僕の予想通り、僕を閉じ込めていた分厚い扉が久方ぶりに開きました。 「部屋から出なさい」 いつも僕に食事を持ってきてくれる人が言いました。いつも通り命令口調で話すその人とはほんの少し視線を交わし、会釈をするだけの間柄でしたが、その声はまるで灰色でした。 部屋の外には数名の男性がいました。皆同じ服を着て、目深に帽子を被っています。どこに連れていくのかと聞いても、ついてくるようにとしか言われません。 階段を少し降りて、長い長い廊下を歩きます。 廊下に音階をバラバラにした鉄琴みたいな足音だけが響きます。廊下の突き当たりにある両開きの扉を開くと、むわりと白檀の香りがしました。 ゆらゆらたちのぼっている白い煙はまるで蜘蛛の糸の様です。 「何か言い残す事は無いか」 と、聞かれたので僕は迷いなく答えました。 「明日もドーナツが食べたいな」 返事は返ってきませんでした。 その代わり、部屋の奥の扉が開くと、そこには、天井からぶら下がった輪っかが己を主張するみたいにぶら下がっていました。 ああ、やっぱり今日は特別な日だ。 このドーナツみたいな輪の中を覗くことが出来るのは特別な人間だけだろう。 そう、僕みたいに大好きだった家族を皆殺しにするような、特別な人間じゃないと。
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