弁明 か 言い訳 か

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手元に携えた小説の文字が、ぼやけて、霞んで、上手く読めない。まどろみを払うために、両の掌を目に強く押し付けると、白と黒の世界がぐるぐると回転を始めた。  手元の時計をじっと眺めると、辛うじて八時過ぎを指す針を読み取れた。  男を待ち続けて、どれ程の時間が過ぎただろうか。陽は既に落ち、夜空には朧月が揺蕩たゆたっていた。  もう来ないのかもしれない。そう思い始めていた時だった。 「美弥さん、君に会いに来た。入るよ!」  私の名前を呼ぶ声がした。何故名前を知っているのかは置いておくとして、その声は紛れもなく、昼間に私の背中に掛けられた声と同じものだった。  引き戸が動き、男の足音が迫ってくる。ドクドクと心臓が早鐘を打ち、縁側に座ったまま、動くことが出来なかった。  なら、このまま待とう。焦って動き回っても、みっともないだけだ。そう考え直し、背筋をピンと張って、堂々と男を待ち受けることにした。  背後の襖が静かに引かれた。身構えていたが、男は一向に口を開かず、動きもしなかった。 「誰」  結局、口を開いたのは私だった。自分でも驚くほど低い声だった。 「楓だ」  男の答えも簡潔だった。楓、か。女の人みたいな名前だ。 「君は、矢木野美弥さんで合っているかい?」 「合っているけれど、何故知っているの?」  名乗った覚えなどなく、顔も合わせた覚えがない。それなのに何故この男には、私の名前が分かるのだろうか。 「生徒手帳を落として行ったから。勝手に見たことは謝るよ」  なんだ、そういうことか。男は隣に腰掛け、生徒手帳を返した。それを受け取りながら、私は初めて男の姿を見た。  五十は過ぎているだろうか。髪は黒かったが、所々が白髪になっており、染めているのだろうことは漠然と感じた。顔には深い皺が刻まれ、抗えない時の流れを感じさせた。ただ一つ、声だけは張りと伸びあり、希望を感じさせていた。
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