雲泥

2/4
前へ
/17ページ
次へ
 男の返答は、意外なものだった。 「俺は、『雲泥』も好きだったけど『狒狒』もいい作品だったと思う。君はどの作品が好き?」  私のことを何一つ追及しなかった。訳が分からなかった。それでも、とても嬉しかった。 「そう……だなぁ。一番は『雲泥』、二番は『渦』かなぁ」  私の記憶に強く残る作品の名前を挙げた。『渦』。葛藤を抱えた、自責の念の強い高校生の主人公が、負のループにはまり、そこから抜けられずに絶望していく様を描いた作品だった。明るい作品ではないけれど、自分自身と通じるものを感じたから、強く印象に残っていた。 「ぽいなって思ったでしょう?」  初めて隣を振り向いて、精一杯の笑顔を作った。ありがとう、知らない人。私を気遣ってくれて。 「多分そうだよ。近いものを感じるからだと思う。楓さんは『狒狒』って感じはしないけれど」  『狒狒』は喜劇だった。『枯山水』の作品の多くは、とても暗い話だったが、『狒狒』は頭のてっぺんから足の先まで、完全に笑わせに来ていた作品だった。 「俺だって、一発芸の一つや二つはあるんだぞ」 「盛大に滑りそうだね」  彼が一発芸をしている姿を思い浮かべると、自然と笑いが込み上げて来た。盛大に滑って、それが逆に笑いになる。そんな茶番劇が繰り広げられるのだろう。  なんだか急に、私と彼の距離が詰まった気がした。 「ねぇ、楓さんは、どうして『枯山水』の作品を知っているの?」  さっきから疑問に思っていて、それでも聞けなかった質問が、今は口から滑り出すように出た。 「友達だから。『枯山水』の。古い古い、親友だったんだ」  そっか。友達なら納得がいく。『枯山水』も、今では五十過ぎのおじさんなのか。 「でもある時、彼奴あいつは、急に交通事故で命を落とした。高校三年生の時にね」  『枯山水』はもう、この世にいない。強いショックを受けた。同時に、悪いことを聞いてしまったと反省した。 「最後の作品が『雲泥』だったんだ。彼奴が書いていた最後の作品、書き上げられなかった作品が『雲泥』だったんだよ」  不慮の事故で書き上げることが出来なかった最後の作品。自分が手を加えたそれが、如何に重い意味を持つ作品だったか。怖くて仕方なくなった。
/17ページ

最初のコメントを投稿しよう!

0人が本棚に入れています
本棚に追加