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「君が書き加えた『雲泥』、本当に良い物語だった。あの作品を完成させてくれてありがとう」
彼は静かな声で、ゆっくりと呟いた。
ありがとう、か。感謝されるようなことをした気分では無かったのに、大切な思い出に泥を塗ってしまったのではないかと怯えていたくらいなのに。この言葉は私にとって、あまりに意外だった。
「お世辞は要らない。私が足した部分、分かっちゃうでしょう。下手だからさ」
素直に感謝出来なかった。私を気遣ってくれたのだろうことは、想像に容易かったのに、それなのに、意地っ張りな返答しか出来なかった。
「ならどうして、書こうと思ったの?」
またしても痛い所を突かれた。答えに窮した。自分でもよく分からない。ただ『雲泥』以外にはあり得ないと思ったのだ。
「君も『枯山水』みたいになりたかった。違うかな?」
渦巻いていた疑問が、途端に一つに集約されていくような感覚が走った。そうかもしれない、私も、私は。
「俺はなりたかった。彼奴に憧れた。俺を小説の世界に引き込んだのは彼奴だった。彼奴みたいになりたかったんだ。それを伝える前に、彼奴は一人で逝ってしまったけれどね」
彼の声は小さく穏やかで、それでいて確かだった。
「だが、『雲泥』が未完成だったのは、彼が途中で亡くなったからじゃ、無いと思うんだ」
再び言葉を紡ぎ始めた声からは、どこか自信に似たものを感じた。
「彼には、ハッピーエンドが書けなかった。『渦』で描いた生々しい闇を書けても、『狒狒』で描いた活き活きとした喜劇が書けても、彼には、救いのある優しい物語が書けなかった」
本当だろうか。たしかに、作品の束の中には、幸せな結末を迎える物語は無かったけれど。
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