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スマホからのお説教
結局、自宅に着いてしまった。美咲からの連絡はないままだ。美咲とあの係長が二人並んで映画館の椅子に座る光景が頭に浮かび、部屋の壁を蹴った。
「クソー」
落ち着かないが、とりあえず腰をおろした。缶ビールを口にしたがうまくない。ポテチの封を引きちぎるように開け、ひとつまみ口に放り込む。次に焼鳥の封を開けた。
その時、『ブーン、ブーン』という音が聞こえた。俺はポテチの袋の横にあるスマホを見た。スマホが暴れている。
「やっとかよ」
待っていたと思われるのが癪なので、すぐには出ず、ビールをもう一口飲んでから暴れるスマホに手を伸ばした。
スマホの画面を覗きこんだ。そこには『わし』と表示されていた。美咲からではなかった。
「誰なんだよ?」
『わし』と言う名に心当たりはなかった。
俺はスマホの電話帳登録の名前をあだ名にしている人物が数人いる。
お笑いタレントの『タカ』に似ているので『タカ』という登録名にした男はいるが、『わし』で登録した人物の記憶はない。あれこれと記憶の糸を辿りながら、スマホの画面を眺めていた。その間、スマホはずっと鳴り続けていた。
美咲の登録名は何度か変えた。出会って連絡先を交換した時は、すぐに『山川美咲』と登録した。美咲の誕生日に告白して『はい、喜んで』と返事をもらった日の夜に、心を弾ませながら『美咲』に変えた。その後、他人に言うのは恥ずかしいような登録名にしたこともあった。そして、婚約した日に美咲の登録名を『嫁』とした。
結局、『わし』という記憶に辿り着かないまま、鳴りやむことのないスマホの通話ボタンをタッチした。
「もしもし」
恐る恐る声を潜めて出た。
「あー、わしや、わし」
相手は威勢よく話しかけてきた。心当たりがない声なので、間違い電話だろうと思った。
「すいません、どちらにおかけですか」
「どちらにてお前にやないか、自分、中本裕太やろ」
「あっ……はい、……中本裕太ですが……」
電話の相手が誰なのか全く見当がつかなかった。しかし相手は俺の名前を知っている。がさつな感じだし、面倒なことに巻き込まれるのではないかと不安になった。
「失礼ですが、どちら様でしょうか」
「わしか? 名乗るほどのもんやないしな、今日は自分にクレームつけよ思うてな。まあ、その内容聞いてくれたら、わしの正体すぐにわかると思うわ」
「ク……クレームですか……」
やっぱり面倒なことになるのか。俺は記憶を辿ったが、仕事でも私生活でもクレームをつけられるようなことは思い浮かばなかった。
もしかして、美咲の知り合いなのかもしれない。美咲には別の男がいて、その男からの電話ではないだろうか。
例の係長が頭に過った。会ったことはないが、美咲に職場の写真を見せてもらったことがある。背が高くてダンディな感じで、いけ好かないタイプだ。写真には男女十人くらいが映っていたが、そいつは美咲の隣に立っていた。それを見てムカついた。
ただ、写真で見たイメージとこの電話のガサツな声の感じは合わないと思った。
「そんなに緊張することないで、リラックスしてや」
「は、はあ」
電話の相手が誰かわからない上にクレームだと聞いて、リラックスできるはずがない。
「わしを握る手に力入り過ぎやねん。窮屈やからちょっと軽く握ってくれる。自分の手は汗でビショビショやし、もしかして自分ビビってるんか」
言っている意味が全く理解できなかった。
「全く意味がわからないんですが。名前くらい名乗ったらどうですか。あなたは美咲にちょっかいを出している美咲の職場の人でしょうか。俺は、そんな人からクレームを言われるようなことはしていません」
「ハハハ、おもろいこと言うなぁ。そういうとこも、自分のあかんとこやけどな」
「人をバカにするのはやめて下さい」
だんだんと腹がたってきた。
「それそれ、そういうすぐカッとなるとこは、早よなおした方がええな」
「そちらが怒らせるようなことしてるんじゃないですか」
「まっ、そうかもしれんな。とりあえず謝っとくわ、すまんなー」
完全に俺をバカにしている。
「なんなんですか。こっちがクレーム言いたいくらいですよ」
「そうかいな。どんなクレームや。聞いたるから言うてみ」
「いいですよ。それより、そっちのクレームって何ですか」
「わしのクレームちゅうのはな、わしを充電しながらゲームしたり、ラインしたりするのをやめてほしいんよ。それってめちゃくちゃ疲れるんよ」
「はぁ……、充電?」
こいつは何を言っているんだろうか。まったく意味不明だ。
「そうや、充電の時や、自分、ようゲームするやろ」
「ゲーム?」
「そうや。わしを使ってゲームするやろ。わしの電池が無くなってんのに充電しながらでもするやろ。それをやめてほしいんや」
まさかとは思ったが、この電話の相手は、このスマホ自身なのだろうか。いやそんな事があるはずがない。
「まず、あなたが誰なのか名乗って下さい。それから、あなたのクレームを聞きます。でないと電話切りますよ」
「わしが誰かもうわかってるやろ。まさかと思ってるみたいやけど、そのまさかやで」
本当にこの電話の相手はスマホ自身なのか。俺は一旦、スマホを耳から離して、スマホを見た。特に変わったところはない。
「本当にあなたは、このスマホなんですか?」
「そうやで、話したらすぐにわかる言うたやろ。わしは、あんたが今、手に握ってるスマホやで」
信じられない。絶対にイタズラだ。
「イタズラはやめて下さい。電話切りますよ」
「嘘みたいやけど、ほんまなんやな」
「信じられません」
「信じろや。信じる者は救われるやで」
信じられないが、このままでは前に進まないので、とりあえずこのわけのわからない奴に合わせることにした。
「スマホって関西弁なんですか?」
「わしは関西出身やからな、関西弁は嫌いかいな」
「いえ、俺も関西に住んでたことありますし、お笑いが好きなんで関西弁は嫌いじゃないです」
「そうか、そりゃ良かったわ」
「あなたのことを『スマホさん』と呼べばいいですか」
「呼び方なんて何でもええけど、『スマさん』にしとこか」
「じゃあ、スマさん。スマさんは充電の時にゲームやラインをやらないでほしいということを伝えるためだけにわざわざ電話してきたんですか」
「クレームは、それだけやあらへん。まだまだよーさんあるんや。けどな、自分、今の言い方やと充電しながらゲームやラインくらいええやないかと思ってるんやろ」
「まあ、それくらいでクレームの電話しなくてもいいのにとは思いますけど」
「やっぱりわかってくれてなかったんやな。自分、今からポテチや焼鳥でも食べながらビール飲もうと思てたんやろ。それを邪魔されたから機嫌悪いんちゃうか」
「別にそれだけじゃないですけど、機嫌が良くないのは確かです」
「そしたら、遠慮せんと食べながら、わしの話聞いてくれたらええで」
「じゃあ、遠慮なく食べますね」
「おー、食べながらきいてくれ。けどな、それ食べながら腹筋と腕立て伏せをやれ言われたら嫌やろ」
「嫌に決まってるじゃないですか、食べた物を吐いてしまいますよ」
「そうやろ、嫌やろ。しかしな、充電しながらゲームやラインするちゅうことは、自分はわしらにそういう事をやらせてるんやで、わかってるか? 充電ちゅうのは、わしらにとっての食事なんや。食事中にゲームやラインやられたら、わしらの体が変になってしまうわ。わしらに、そんなこと、やらせておきながら、電池の持ちが悪くなったやら、充電遅くなったやら、文句ばっかり言うやろ。わしらも大変なんやで」
「わかりました。これからは気を付けます。じゃあ切りますね」
美咲から電話かラインが来るかもしれないのに、こんなわけのわからない電話に付き合ってられない。早く終わらせようと思い、クレームを素直に受け入れることにした。
「美咲ちゃんからの電話やラインが気になって、わしの電話を早く切りたい思ってるんやろ。心配せんでも、美咲ちゃんからの連絡があったら教えたるわ。まぁ、残念ながら、ゼッタイに、無いけどな」
『ゼッタイに無い』と強調して言ったのが引っかかった。
「何で美咲からの連絡が絶対に無いと言い切れるんですか」
「ハハハ、そのうちに自分にもわかるわ。喧嘩したくせに、連絡無かったら不安なんかいな」
「美咲から詫びの電話があってもいいかなと思ってただけです」
「残念ながら無いわ。悲しいけど無いわ。ゼッタイにゼッタイにゼッタイ無いわ。さっさと自分から電話して謝っとったら良かったのにな」
美咲から絶対に連絡がないと言われて、こいつの言う通り電話しておけば良かったと少し後悔した。
「話変わるけど、自分はロリコンやな」
「えっ、何ですか急に」
「よう、アイドルの画像を検索して、アイドルの水着姿に鼻の下のばしてるやろ。その時、わし笑うてしまいそうになるねん。もっと過激なやつ見てる時もあるしな、ほんまスケベな男やな」
「男なら、それくらいはあるでしょ。そんな話はどうでもいいじゃないですか。他にもクレームがあるんじゃなかったんですか」
「美咲ちゃんは可愛いしな。わし、美咲ちゃんのスマホになりたかったなぁ。そしたら『スマさん』やなくて、美咲ちゃんに『スマちゃん』とか呼ばれて幸せやったのになぁ。こんなスケベなロリコン男のスマホに生まれてわしも不幸やったわ」
わけがわからないし、ムカつくスマホだ。投げつけて壊してやろうかと思ったが、結局、スマホが壊れたら自分が損するだけだと冷静になった。
「そんな話ばかりなら、電話切りますよ」
「あかん、あかん、これからもっと大事な話があるんや。実はこれからが本番やで。わしは自分のためを思って電話してるんやで、そやのに、自分の態度ちょっと悪過ぎなんちゃうか」
「そっちの態度が悪いんでしょ」
俺はイラついていた。このスマホを壊して新しいのに買い換えてもいいと思いはじめていた。
「そう慌てんな、これからの話は、自分にとって大事な話やからな、心の準備が必要や思うてリラックスさせてやったんや」
「……」
「なんや、無視かいな。そしたら大事な話するで」
「……」
「気持ちの準備はいいかな?」
スマホはさっきまでとは違う言葉遣いで透き通るような美咲の声に変わっていた。本当に大切な話でもするのだろうか。
「あっ、うん。大丈夫」
俺は少し緊張した。少し沈黙があって耳を澄ませた。
「美咲ちゃんの声やと、ちょっと緊張感出たやろ。自分も聞く姿勢が出来てたわ。それでよろしい。そやけど自分が真剣に「うん。大丈夫」て言うのは、なんか似合わんな。笑うてまうわ。自分はロリコンのイメージが強いからな。ハハハ」
スマホは元のダミ声と話し方に戻っていた。
「何なんですか、ふざけないで、さっさとして下さいよ。ただでさえ美咲と喧嘩して俺は機嫌悪いのに、いい加減にしてください」
「カリカリしても、ええことないで。今から話すクレームは、その喧嘩にも関係あることなんやで」
「美咲との喧嘩に関係あることですか」
「そう、それはやな自分の美咲ちゃんに送るラインの内容にクレームやねん」
「俺の送るラインにですか?」
「そうや、自分の最近のラインの内容が酷くて、わしは頭痛くなってんねん。汚い言葉、打ち込まれて送らなあかんわしの身になってほしいんや。苦しくて悲しくて、わしスマホを辞めたいと思うてたんやから」
「どういうことでしょうか?」
「どういうことって、自覚無いんかいな。自分、頭悪いんちがうか? ラインの内容が酷い言われてピンとこえへんか」
「俺のライン、内容が酷いですかね?」
「ああ、そうや。最近は特に酷いで、言葉が汚すぎるねん。教えよか」
「あっ、はい」
「例えばやな『もう、うんざりだ』『お前のせいだろ』『嫌なら別れようぜ』『俺の方が大変なんだよ』『それくらい我慢しろよ』、まだまだあるけど、わしも言いたくないからな、これくらいでええやろ。自分の悪い頭でも、これで理解できるやろ」
「確かに美咲にそんなラインのメッセージを送ってましたね」
「そやろ、それをやめてほしいねん。昔は、そんな言葉つかってなかったから、わしも心地良かったわ」
「そうでしたっけ?」
「そうやで。昔はな『体は大丈夫か』『俺に任せておけ』『いつでも力になるから』『心配するな』、みたいな言葉が多かったな。自分みたいなロリコンスケベ男でもかっこよく思えたけどな」
言われてみれば、美咲へのラインの内容は変わってしまったかもしれない。
「わしの体が、かゆくなるような時期もあったけどな。美咲ちゃんと付きあいはじめた頃は『君の事で頭の中がいっぱいだ』『君は僕の太陽だ』『僕は君を幸せにする為に生まれてきたんだ』、みたいなラインばっかり送ってたやろ。どの面下げて言うてんねん思うたけど、それはそれで面白かったわ。けど今は酷いだけ、面白くもないわ」
俺は恥ずかしかったが、さすがに俺のスマホだけあって、ラインの内容は間違いなかった。
「そうですね、おっしゃる通りです。これからは酷い言葉に気を付けます」
しばらく沈黙があり、スマホが一言だけ「ああ」と言った。
明らかに声のトーンが低くなって元気がなかった。俺はまた悪ふざけかと思った。
「けど、もう遅いねん。今さらどうしようもないわ。このことをもっと早く自分に伝えとけばよかったわ」
声のトーンは低いままで元気がない。美咲からは絶対に連絡はないと言い切ってたし、今さらどうしようもないと言うし、俺は不安になった。美咲はもう戻ってこないのかもしれない。
「スマさん、どうしたんですか? 元気ないですよ。今さらどうしようもないって、何でそんな弱気なこと言うんですか。教えてくださいよ」
「あせらんでもええがな。自分には話しておかなあかん事やからこれから話すわ。ただな、今度は、わしの心の準備が必要なんや。これからがほんまの大事な話やからな」
スマさんの声はふざけた様子もないので、俺は息を呑んだ。
「自分、今日のこと覚えてるか? 美咲ちゃんに酷いこと言うてデートの途中で帰ってしもうたこと」
「はい、覚えてます。美咲が昨日遅くなったことを言い訳するので腹が立って、デートの途中で帰ってしまいました」
「帰り道に怒りながら美咲ちゃんにラインしてたわな? さっき言うたような酷いライン送ってたわな。送る方のわしの身にもなってや。自分のわがままなライン送るんは、心苦しかったわ」
「美咲が会社の飲み会で帰りが遅いから注意しただけですよ。それを言い訳するから結婚か仕事か選んでくれって、それだけです」
「何がやねん。それって、ただ嫉妬しとるだけやないか。係長と浮気してるやろとか、そんな飲み会ある会社は辞めろとか、辞めないなら婚約破棄やとか、そんなことばっかりラインしてたよな。自分は何様や思うてんねん。自分は本物のバカやねんで、ただのロリコンスケベ男やねんで、それわかってるか」
「確かに飲み会で遅くなって連絡してこないから、嫉妬したのかもしれません。ちょっとカッとなってラインしてました。それは反省してます」
「反省しても、もう遅いわ」
「えっ」
もう遅いってどういうことだろう。
「それからな、どこでラインしてたんや?」
「帰り道ですけど」
「それも問題やねん」
「何でですか?」
「自分、歩きスマホしてたやろ。それが問題やねん」
「歩きスマホはマナー違反なのは、わかってますが、みんなやってますよ」
「みんなやってるとか、そんなん、どうでもええねん。相変わらずわからんやっちゃな。自分覚えてへんみたいやから教えたるわ」
「何のことかわかりません」
「よう聞きや、ほんま大事な話やで」
「はあ」
「自分、コンビニで買い物してから信号待ちでラインしてたよな」
「あっ、はい、そうでした」
「その時、まだ信号青に変わってへんのに、ラインに夢中で渡りはじめたやろ」
「そうでしたっけ。青になってから渡りましたけど」
「いいや、まだ赤やったんや。ラインに夢中で信号を見てなかったんや」
「はっきり覚えてません」
「あのトラックも信号が黄色から完全に赤に変わってたから、とまらなあかんかったけどな。自分も全く気付いてなかったもんな。トラックも突っ込んできてたからブレーキ遅れたしな。そうなったら、わしには、どうしようも出来ひん。歩きスマホやめろ言うたけど間に合わへんし、自分とトラックの間に入って助けよ思うたけど、わしなんか簡単に吹き飛ばされて、バキバキに割れてもうて、わしは再起不能になったわ」
「あっ……」
俺はスマホを強く握りしめた。思い出した。鼓動が激しくなった。
コンビニを出て信号待ちしながら美咲に怒りのラインを打っていた。車道側の信号をチラッと見たら赤になっていたので、ラインを打ちながら渡りはじめた。
『おい、コラ、歩きスマホは危険やで。すぐにやめんかい』
空耳だと思った。
あの時、顔を上げたらトラックが俺に突っ込んできていた。
「ウワー」と叫んだ時にスマホが手から離れていった。
「ちょっとは思い出したようやな。自分、歩きスマホしてたからトラックが突っ込んで来てんのに気づかんから、はねられたんやで」
「そうだったんですか」
トラックが俺に向かってくる時のことを思い出した。その後、どうなったんだろう。そして、今はどういう状況なのだろうか。
「自分は今、病院のベッドの上や。命は助かりそうやからよかったけどな」
「スマさん、あなたはどうなったんですか?」
「わしか? さっきも言うたやろ、バキバキに割れて再起不能や」
「えっ……」
「それでやな、もうわしに来たラインは自分、見られへんからな。あの時、美咲ちゃんが最後に送ってきたラインを伝えとかなあかん思うてんねん」
「あの後、美咲からラインがあったんですか?」
「あったよ、美咲ちゃんは、ええ娘やな。絶対自分みたいなバカにはもったいないわ。今からそのラインの内容読むからな。もちろん、わしの声やなしに、美咲ちゃんの声で読んだるからな、目瞑って聞いとき。これがわしの最後の仕事や」
「はい……」
俺はスマさんに言われた通りに目を閉じた。しばらく沈黙があって、それから心地よい透き通るような美咲の声が聞こえてきた。
『裕太さん、昨日の新年会で帰りが遅くなって本当にごめんなさい。でも、裕太さんが思ってるような浮気とかでは絶対にありません。それは信じて下さい。裕太さんは仕事か結婚かどちらか選べって言うけど、ごめんなさい、それは無理です。仕事は結婚してからも続けたいです。仕事と裕太さんのどっちが大切かと言うと、間違いなく裕太さんです。裕太さんと結婚したいです。結婚して裕太さんの子供を産みたいです。その後は裕太さんと子供と幸せに暮らしたいです。仕事は続けさせて下さい。そして結婚して下さい。お願いします』
「……」
「以上や、ほな、お幸せに」
目を開けると白い天井が見えた。蛍光灯の灯りが眩しかった。頭の下には枕がある。俺はベッドに横たわっているようだ。一体ここはどこだ、と起き上がろうとしたが体が動かない。首だけ動いたので、持ち上げて周り見渡した。見覚えのある顔がスーッと目の前に飛び込んできた。母親の顔だった。
「あー」
母親の裏返った声が俺の耳元で響いた。母親は目を大きく見開き俺の顔をじっと見ていた。
「ああ、母さん」
声は出にくかったが、母親には届いたようだ。母親の目から大粒の涙が俺の頬に落ちた。
「裕ちゃん、お母さんよ、わかる?」
顔をぐしゃぐしゃにしている母親を見て頷いた。
「裕ちゃんの意識がもどったわぁ」
母親の声が部屋に響いた。もう少し顔を上げて周りを見渡した。母親の隣に父親が立っているのが見えた。母親は父親の肩に顔を埋めた。父親を見ると、口を真一文字にして震えているようだった。俺の顔を見て「よかった」と震える声を出して、何度も小さく頷いていた。
父親の後ろにもう一人、誰かが立っているのが見えた。俺は首をずらして、そっちに視線を向けた。
美咲だった。俯いているので、はっきり顔が見えない。手にハンカチを握りしめているのが見えた。
美咲の顔を見ようと、少し体を起こしてみようとしたが動かない。
父親が気をきかせてくれ、自分が後ろに下がり、美咲の背中に手をやり俺の方へと押し出してくれた。
「美咲」
俺が声をかけると美咲は声をあげて泣き出し、両手で顔を覆った。
しばらく美咲が泣いている姿を見ていた。俺はスマさんの言葉を思い出していた。スマさんの言う通り、俺ってバカだなと思った。
「美咲」もう一度呼んだ。
美咲は泣くのを堪えて、息を整え俺に向かって「ごめんね」と震える声で言った。
今度は俺が泣きそうになった。俺も声を出して謝ろうと思ったが泣き出しそうなので、首を横に振るだけにした。
美咲の顔は化粧っ気もなく、髪の毛はボサボサだった。泣いていたせいだろう顔は腫れていた。
しかし、これまで見てきた美咲の表情の中で一番、いとおしく可愛い表情だった。
『自分、感謝しいや』
遠くでスマさんの声が聞こえた。
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