婚約破棄

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婚約破棄

 カフェの入口に立ち、スマホで時間を確認した。十時十五分。待ち合わせ時間に十五分遅れていた。 「もっと遅れてやってもよかったけどな」  俺はそう呟いてから、自動ドアをくぐった。 「いらっしゃいませ」と若い女子店員たちの声が店内に響いた。  三十席程度ある店内をぐるりと見渡した。一番奥の四人がけの席で俯いて座っている美咲の姿を確認した。俺が来たことには気づいていない様子だ。それがムカついた。 「フン」と鼻を鳴らして、レジでホットコーヒーを注文する。コーヒーが出来上がるのを待っている間、振り向いて美咲の方を見たが、まだ俯いたままだ。 「クソー。無視かよ」心の中で怒鳴った。  出来上がったコーヒーを受け取り、美咲の座る席へと向かった。美咲の前まで来たが、美咲はまだ俯いたままだ。  本当に気づいていないのか、気づいてないふりをしているのかはわからない。コーヒーをコツンと音を立ててテーブルに置いた。そこでやっと美咲が顔を上げた。美咲と目が合う。 「おお」  俺は口元を歪め、不機嫌な声を出した。 「ごめんなさい」  美咲がペコリと頭を下げた。  俺は椅子に腰掛けてから「ハァー」とため息をついた。  そこからしばらく沈黙した。美咲は顔を上げようとはしない。 「下向いて黙ってないで、なんとか言えよ」  俺はテーブルを手のひらでバンと叩いた。目の前のカップからコーヒーが飛び出しテーブルを汚した。横の席に座る二人組の若い女たちが俺の方に冷やかな視線を向けてきた。  ムカついたので、女たちを睨むと、女たちはすっと俺から視線をそらした。 「ごめんなさい。新年会の二次会に誘われて、それで断れなくて……」 「ふーん、それにしても帰る時間が遅すぎだろ」  俺は腕を組んで椅子の背もたれに体を預けた。 「うん、あっという間に時間が過ぎちゃって、気がついたら十一時まわってて、裕太に電話しようかと思ったけど、寝てたら悪いし、今日の朝でいいかなって思って……」  美咲の声はだんだんと小さくなり最後は聞き取れなかった。 「はぁー、何言い訳してんの。ムカつくなぁ。俺、お前に何回も電話もラインもしたんだからな。なのに、まったく電話に出ないし。いくら待っても電話もラインも返ってこないし」 「二次会がすごく盛り上がって、全然気づいてなかったの。ほんと、ごめんなさい」  美咲が膝に手を置いて額がテーブルに当たるくらい頭を下げた。  今日は婚約者の美咲と映画に行く約束をしていた。今は待ち合わせ場所のカフェに来ている。  しかし、楽しいはずのデートは険悪なムードでスタートしていた。こうなったのはすべて美咲のせいだ。  昨日の夜、今日のデートの待ち合わせの時間と場所を決めておこうと何度も美咲に電話したが、美咲が電話に出ることはなかった。職場の新年会があると聞いてはいたが、帰宅が午前様になるとは思ってもみなかった。そんなことはこれまでに一度も無かったので、昨夜はムカついてほとんど眠れなかった。今日のデートは中止だと決めていた。  結局、今日の朝になって、美咲から電話があり、このカフェで十時に待ち合わせすることになった。電話があった時、デートは中止だと言って、そのまま電話を切ってやろうと思ったが、とりあえず美咲の顔を見て怒りをぶつけないと気がおさまらなかったので、待ち合わせ場所のこのカフェまで来ることにした。   「二次会は誰に誘われたの?」 「翔子に誘われた」  翔子は美咲と同期で一番仲が良いと聞いている。 「ほんとかよ」 「本当よ」 「ふん、信じられんわ」 「翔子がわたしが結婚したら飲みに行く機会も減るだろうから、今回は一緒に二次会まで行こうって誘ってくれたの」 「あのスケベな係長に誘われたんじゃないの」  俺は、美咲が職場で尊敬していると言っていた係長に誘われたのではないかと疑っている。  美咲が自分の職場の話をする時にその係長の話題がよく出てきた。イケメンで優しく、仕事も出来ると目を輝かせて話していた。俺はその話を聞く度に機嫌が悪くなった。そいつは美咲を狙っている。そして美咲もまんざらではないと思っていると疑っている。 「係長って、森脇係長のこと?」 「そう。そいつのこと尊敬してるって言ってただろ。それでそいつに誘われてノコノコついてったんじゃないの」 「違うよ。森脇係長は関係ないし」 「怪しいな。二人だけの二次会だったんじゃないのか。だから、俺の電話に出れなかったんだろ」 「違うよ」美咲の声が破裂した。  隣の女たちがこっちを見てきたので、また睨んでやった。 「信じられっかよ」 「電話に気づかなかったことと、遅くなったことは謝る。ごめんなさい。けど、わたし、やましいことはしてないからね」  美咲の眉間に皺が入った。 「とりあえずさー、結婚したら今の仕事辞めろよ」 「えっ、うそ。結婚してからも仕事続けていいって言ってくれたじゃない」 「昨日で気が変わった。結婚したら仕事は辞めろ。それが嫌なら結婚は中止だ。婚約破棄だな」 「そ、そんなー。勝手すぎるよ」 「うるせぇな。お前が浮気するから悪いんだろ。仕事辞めるか結婚やめるか、どっちかだ。お前に決めさせてやるよ」 「浮気なんてしてないし、仕事か結婚かどっちかなんて、そんなの決められないわよ」 「俺とあの係長のどっちを選ぶかだよ」 「そんなの比べることが変じゃない。言ってることが滅茶苦茶よ」 「どうせ、俺は滅茶苦茶だよ。けど、今回は、絶対にお前が悪い」 「もーっ、どうしてそんなこと言うのよ。遅くなって連絡しなかったことは謝ってるじゃない」 「じゃあ、俺、帰るわ」 「えっ、今日これから映画観に行く約束じゃない」 「そんな気分じゃねぇよ。一人で行ってこいよ」 「前売り二枚買ったんだよ」 「じゃあ、お気に入りの係長でも誘って行ってこいよ」  冷めたコーヒーを飲み干してコーヒーカップを叩きつけるように置いて、そのまま席を立った。 「うそでしょ」  美咲の目に涙が浮かんでるのがわかった。フン、ざまあみろだ。 「じゃあな」  右手を上げた。 「ちょっとー」美咲が立ち上がった。  無視してカフェの出口へと向かった。  カフェを出てからそのまま駅へと向かった。  帰りに駅前のコンビニに寄ってビールとおつまみでも買おう。昼間っからビール飲んでヤケ酒だ。うん、それがいい。  まあけど、家に帰るまでにきっと美咲から連絡が入るだろう。電話かラインかわからない。まぁ、謝るなら電話だろう。ラインで謝られても、それはスルーだ。 『ごめんなさい。仕事は辞めます。結婚して下さい』  電話でそう言ってきたら許してやろう。その時は美咲を部屋に呼んで映画に行けなかったかわりにいっしょにテレビでもみて、二人でゆっくりビールを飲みながら過ごすことにしよう。  とりあえず駅に着いた。美咲から電話はない。スマホを見るがラインもきていない。すぐに美咲から連絡があると思っていたが、その気配はなかった。  まぁ、いい。駅で電車を待っているくらいに連絡してくるだろう。俺は駅の改札を抜けた。電車はタイミングよく、すぐにホームに入ってきた。乗り込む前にもう一度スマホに視線を落とした。 「ハァー」とため息が出て、スマホをポケットに放り込んだ。  電車に乗ってから何度もスマホをポケットから取り出してみたが、スマホは沈黙を続けたままだ。  せっかく許してやろうと思ってんのに。だんだん怒りがぶり返してきた。イライラしながら俺から美咲に何度も怒りのラインを送った。  電車は自宅の最寄り駅についた。まだ連絡はない。駅前のコンビニに入って缶ビールやおつまみなどを適当に買った。一応、二人分買うことにした。  コンビニを出て信号が変わるのを待っていた。その間、何度もスマホを見た。 「クソー、なんなんだよ」  だんだん怒りが頂点へと達していく。本当に係長と映画に行ってんじゃないだろうな。 「ハァー、いい加減にしろよ」  もう一度、こっちからまたラインを送ることにした。 「これが最後だぞ。このライン無視したら本当に別れるからな」  一人、ブツブツと呟きながらメッセージを打った。メッセージを打ち込みながら、視界の端で車道側の信号が赤に変わるのをとらえた。そのままメッセージを打ち続け信号を渡ろうとした時だった。 『おい、コラ、歩きスマホは危険やで。すぐにやめんか』  どこかから変な声が聞こえた。  美咲と知り合ったのは三年前だった。高校の時の同級生相川健吾の彼女の友達が美咲だった。相川たち数人との飲み会の場に美咲はいた。  美咲を見た瞬間に俺の心臓は跳ねた。隣の席に美咲がいたので、いろいろと会話しているうちに、ドンドンと彼女にひかれていった。飲み会が終わる頃には彼女と結婚して幸せにしたい、彼女が俺の運命の人だ、そんな気持ちになったことを覚えている。  飲み会の後、相川を通じて美咲の連絡先をゲットしてからはデートの誘いの電話やラインを繰り返した。  オーケーという絵文字付きのラインをもらったのは、五回目の誘いの時だった。  それからデートを何度か重ねたが、『結婚を前提に付き合ってください』とは、なかなか言えなかった。彼女は俺のことをただの男友達としか思ってないような気がしたからだ。  美咲は美人で性格もいい。美咲に好意を持つ男はたくさんいるだろう。背が低くてイケメンなわけでもない、なんの取り柄もない、俺なんかと美咲が釣り合うはずがないと弱気になっていた。  ある日、相川から『美咲ちゃんが好きなら告白しろよ、向こうもまんざらじゃないみたいだぜ』と言われた。  その言葉に勇気をもらって、俺は思いきって美咲の誕生日にデートに誘って告白することにした。  好きだ、付き合ってほしいと美咲に告白した後、彼女はしばらく口を開くことなく、俯いていた。その数秒の時間がすごく長く感じ、胸がはち切れそうだった。  美咲が顔を上げて、俺の目をじっと見つめ『はい、喜んで』という言葉を聞いた瞬間に血液が逆流した。その場で気を失うかと思った。
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