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知らないおじさんのへたくそなカラオケ。上手くはないけれどたくさんの曲を知っている母のたどたどしい歌声。いっそくたびれて見えるほどにささやかなミラーボールが紫色の壁紙を舐める光のダンスは、テレビで見た水族館のナイトショーのようで美しかった。
「智冬、退屈じゃない?」
接客の合間に何度もそう声をかけてくる母に、こくんと頷く。
歌謡曲ばかりが流れる狭い店内では正直に言って少し退屈ではあったけれど、大人たちと一緒にスツールに腰かけて絵本を読んでいると、自分も大人になったような気がして背筋が伸びた。
夜の九時を迎えるころにはすっかり眠くなって、ボックス席で毛布に包まってうとうとする。絵本の内容を反芻し、物語を中盤にさかのぼったころには夢の中で、次に目が開いたときには決まって家の布団の中だった。抱っこされて帰宅したことすら記憶にないのだから不思議なもので、智冬は午前のあたたかい光にまみれながら毎度きょとんとしていた。
はじめて貴光のことを認識したのは、そんな淡々とした日常を謳歌する小学校低学年のことだった。
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