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「ちょっと悪い」
「いえ、どうぞ」
付き合っていることは社内には内緒にしているため、少しよそよそしい話し方をする悠次。それは致し方ないと桜も了承しているのでそれに合わせて話すようにしている。社内でのあの執拗なプレッシャーはかけてこなくなって一安心している。
電話に出て名乗ると、悠次はすぐに怪訝な顔になる。どうしたのかと桜が首を傾げていると、徐に聞き慣れない言葉で話し始めた。聞いているうちに思いあたったのは、一年前まで悠次が働いていたドイツのことだった。自分には理解できない言葉で流暢に事もなげに会話を続ける悠次に、感嘆とちょっとした誇らしさを感じた。その薄く形の良い唇から紡がれる独特の少し強めの語調が低く響いてきて耳に心地いい。最初は怪訝な顔をしていた悠次だったが、話すうちに表情は柔らぎ、どこか懐かしむように目を伏せた。桜が初めて見る表情だった。
しばらく話し込んだ後、さっと受話器を置いた悠次に桜は問いかける。
「ドイツ本社からですか?」
「ああ、元同僚だ。こんな時間に掛けてくるから驚いた」
「何だか親しげでしたね」
「そりゃ同僚だからな。悪い、話の途中だったな」
詳しく話すつもりはないのか、手元の資料に話を戻された。結局その日も忙しく、外回りに一人で出てしまった悠次とそれ以上話をすることはできなかった。
その日を皮切りに、ドイツからの電話は毎日のようにかかってくるようになった。早朝だけでなく夕方にかかってくる事もあり、悠次が外出中は部下たちが代わりに電話に出てしまう事もしばしば。電話をとった者は突然の外国語に背筋を伸ばす。仕方なく英語で対応する者や、しどろもどろになってカタコトの日本語で対応する者、何故か小声になる者もいて、いつしか不在の悠次のデスクから電話のコール音が聞こえるたびに異様な緊張感が走るようになった。
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