Ⅱ章 西君が語るいくつかのこと

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彼女の笑顔はなんの脈絡もなく僕に草の匂いや、陽の光や、土の感触を思い出させた。 正確に言うなら、その断片の、とっかかりのようなものを。 そうして、そういうものを手にしていたときの、恐れのない僕のぼんやりとした輪郭を。 それらはともに僕が「向こう側」で手にし、「向こう側」に置いてきたものだった。どうして彼女の笑顔がそんな記憶のパイプを僕に投げかけてきたのかはわからない。それはもしかすると彼女自身に由来するものではなくて、僕自身の潜在的な願望が具現化しただけのものなのかもしれない。それは十分考えられることだった。 僕は恐れのなかった僕自身の輪郭をとらえることを欲している。祈るように、すがるように欲している。「こちら側」にいる僕は恐れているのだ。暗闇に放り出された少年のように怯えている。それを自覚するたびに僕はなんとなく笑い出しそうになる。もちろん笑っている場合ではないのだけど、柄でもないし、我ながら情けないから可笑しくなる。 だけどそんなのんきな感情とは裏腹に、その得体の知れない恐れはまるでしみのように身体のあらゆる部分を着実に侵し、僕はそれを振り払えないどころか、次第に自分自身とそのしみとの境界が捉えられなくなる。 恐れは僕自身となり、僕自身は恐れとなる。この救いのない混沌の中で、僕は「向こう側」にいたはずの木田さんと「こちら側」で出会ったのだ。 僕がミナミと木田さんを会わせようとしたのは半ば本能に近いものだったのかもしれない。向こう側と、こちら側をつなぐために。
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