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「なあ、前におれが話したこと、憶えてる?」
とミナミは尋ねる。
「どんなこと?」
「おれと宏が、あの家を出たときのこと。」
「うん。」
「あのとき宏がおれに、つらいとか、つらくないとかの基準で生きるな、と言ったこと。」
私は頷く。押入れを開ける必要はない。それはすぐそこに在る。
「おぼえてる。ミナミは迷わなかった。」
ミナミは何かにもたれかかる。受話器がその「何か」にあたるこつんという音が響く。何の根拠もないけれど、誰かの家からかけているのだろうな、と私は思う。雑踏の中で公衆電話のボックスに入っているミナミをどうしても想像することができないのだ。
「正確には、おれは『宏についていくこと』を迷わなかったんだ。」
「何か他には迷う要素があった、ということ?」
ミナミは受話器の感触を確かめるように軽く息を吐く。それから少し考える。
「迷う、というよりも、おれは宏のことばが理解できなかった。意味的に、ということじゃないよ。おれは確かにそのとき小学校四年生のガキだったけど、それなりに異様な家庭環境の中ですでに随分大人びてた。自分で言うのもなんだけど、頭も悪くない。」
私は同意する。当時を知っているわけではないけど、ミナミが大人びていないと言われたら、世の中はなかなか末恐ろしい。
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