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序章:逃避
覚えていたのは、憎悪と蔑みの視線。
寒空の中、皮膚を掠めて切り裂かんばかりの冷たい風。街中の湿った石畳をひたすら走り、追手が来ない事を祈りながら息を切らし、とにかく自分が安全だと思える場所へ逃げていた。
この家にはもう居られない。
品行方正を強要し、世間体を特に重んじる家柄のくせに、内情は狂っている。
だが、狂わせたのは自分なのかもしれない。自分という立場が、仮の家族をおかしくしていたのかもしれない。
…ならば。
消える事で、解決するのだろうか。
着の身着のまま、ほぼ寝間着の状態で家から飛び出してしまった黒髪の細身の少年は、寒気に襲われながらようやく足を止めた。
乾燥した喉元が痒くて、足を止めたと同時に激しい咳を繰り返す。薄暗い街灯にしがみつきながらずるずると膝をつき、ぜいぜいと呼吸を改めながら周囲を見回した。
気付けば、元居た場所からかなり走り混んでいたようだ。
もう少しで隣国との境目。鬱蒼とした森林がその先にあり、夜中は危険だ。獣や賊の類に襲われる可能性もある。そう思うと、やはり引き返した方がいいのかもしれない。
悪い事を妄想し、彼はつい生唾を飲み込んだ。だが、引き返した所で何になるのかという考えに至る。
また屈辱の日々を送るのか、と。
蔑みの目線だけならばまだ耐えられる。
だが、卑猥な手に触れられたくない。我慢に我慢を重ね、ようやく自我が芽生えた瞬間、こうして逃げてきたのに。
足元の小石が転がった。
少年の暗かった瞳は、弱々しさから少しずつ力を取り戻す。そして、来た道を振り返る事無く国境へと走り出した。
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