第九章:それぞれの事情

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第九章:それぞれの事情

複雑な表情を見せ、ロシュは自分より少しだけ背丈のある司祭に何故こちらに?と問う。大聖堂のような堅苦しい場所があまり好きでは無い相手の性格を、彼は良く知っていた。 明るめの茶色の髪と同系色の瞳を向け、軽い口調で「君に会いに来たんだよ」と返事をする。 「そんなつまらない用事で来るはずは無いでしょう」 「しばらく会わない内に更につれない態度をするようになったね。もしかして寂し過ぎて拗らせたのかな?」 突然の来客者は悪戯っぽく微笑むが、ロシュは逆に事務的な態度を見せる。 「いいえ。私に用が無さそうなので戻りますね」 「ロシュ」 歩き始めようとするロシュを引き留める。 「何か?」 突き放す言い方をするのは向こうが大人になった証拠だと自らを納得させつつ、司祭はふっと目の端を緩ませた。 「護衛役を付けたそうじゃないか」 「………」 「さっきの二人の少年のうちのどちらかかな?」 リシェとスティレンは黒い宮廷剣士の服を身に付けていた。彼はこちらが知らない内に密かに見ていたようだ。 ロシュは「それを知ってどうするんです」と問う。 「私と同じ事をするんだなと思ってね。可愛い子を手元に置いておきたい気持ちが分かっただろう?でも君は熱しやすく冷めやすいからね」 意味深な発言を聞き、身に覚えのあるロシュはかあっと全身が熱くなった。 「私は遊び半分のつもりはありません。私が何度頼んでも恥を思い出させようとするんですね、レナンシェ。あなたと一緒にしないで下さい」 「何度も私の体を欲しがっていた頃は素直で可愛い美少年だったのに、年を取ると恥ずかしくなるものなのかな?今なら私の気持ちにも理解してくれていると思うんだけどねぇ」 からかうように軽く言葉を紡いでいくのは、昔から知る彼の得意技だ。 手にしていたガラスケースをぐっと抱え、ロシュは司祭レナンシェからの視線を避けるように顔を逸らした。 知らず知らずのうちに奥歯を噛み締める力が強くなる。 「…失礼します」 昔の事を出来れば思い出したくないのに。 退散する事が第一だと思い、ロシュは彼に頭を下げて再び歩き出した。予め知らせてくれれば良かったのに、彼は毎度毎度予告無く目の前に出現してくる。 …まるで自分の反応を楽しむかのように。 レナンシェの視線を背に感じながら塔への道を進んでいく。進みながら、過去の記憶を脳裏に蘇らせていた。 城下街から少し外れた小さな森の中にひっそりと佇んでいた、古い隠れ家で毎夜抱かれた時の事を。 魔力を高める薬だと言いながら毎度飲まされ、好き放題にされていた事を忘れる訳が無い。 確かに効果はあった。だがそれ以上に感度が増し、抵抗する術も無く否応無しに抱かれた。 当時は若過ぎて、刺激的なその行為に埋もれてしまった。だが成長するにつれて次第に違和感を覚えたのだ。 愛だの恋だの都合の良い言葉を並べ立て、己の欲するまま行為を重ねる度に。 …レナンシェは自分を抱く事によって、その背徳感に酔いしれていたのではないかと。 カティルに半ば強制的に書物の修正を押し付けてきたオーギュは、図書館内でこの界隈では見ない服装の少年達の集団に気付いた。 白地に水色の特殊なラインが入った法衣。まだ若過ぎる事から、見習いの司祭のようだ。彼らは所属する地域ごとに法衣にラインの色付けをされていて、このアストレーゼンに居る見習い司祭は黄色のラインが付いた法衣を与えられている。 水色のラインの法衣を身に着ける彼らは、アストレーゼン外からやって来たのだろう。どこからやって来たのか興味が湧いたオーギュは、集団に近付いてみた。 外見で損をしてしまうタイプの彼は、出来るだけ怖がらせないように優しく微笑みながら「こんにちは」と話しかける。 あどけない顔の彼らは、オーギュの姿を見るなり驚いてそわそわし始めた。 「こ、こんにちは」 年齢はリシェよりも僅かに年下位だろうか。 「ここに来てまでお勉強とは感心しますね。どちらからお越しで?」 「えっと…フレンリッカです、魔導師様」 その地名にオーギュはぴんときた。 「フレンリッカですか…それでは、レナンシェ殿もこちらにいらっしゃっているのですか?」 レナンシェ=アイシェス=エルゼリオ。 魔力が高く、次期司聖候補の一人だった司祭の名だ。能力的には何の問題も無く性格も温厚で、皆からの評価が高かったものの、彼には唯一の欠点があった。 彼の素行に問題があり、司聖候補から除外されてしまったのだ。 博愛主義過ぎて、様々な人種に手当たり次第口説いては褥を共にするという致命的な欠点。あくまでも噂の範囲内だが、その話が出る事自体が問題らしい。 しかし、周囲の声を全く気にせず一般の司祭に就いたという事は、当の本人は司聖になりたかった訳では無いようだ。 アストレーゼンから離れ、北側に位置する都市フレンリッカの司祭長に就いた彼は、自ら前に出て教会を主体とする街を作り上げているという。 「はい。レナンシェ様は久しぶりに来たから散歩してくると僕達に告げて大聖堂を回られています」 しっかりした口調で告げる少年は、彼らの中でも一際目立っていた。年齢も一番上のように見える事から、まとめ役なのかもしれない。 金色のゆるくふわふわした髪と透き通るような水色の瞳が印象的だが、そこから僅かに強気な意思を感じ取れる。リシェと同じ年齢位だろうか。 「そうですか。…なかなか来られないですしね…あなた方もどうか気負いせずに楽しんで行って下さい」 「はい。ありがとうございます」 オーギュは少年達に笑顔を見せながら頭を下げ、図書館から出ようとした。 すると、出入口方面から低く穏やかな声が聞こえる。 「やあ、久しぶりだねオーギュ」 伏し目がちだった目をその声の方へ向けた。そして、懐かしいその顔を見るなりふっと表情を緩めた。 「お久しぶりです。レナンシェ殿」 カツンカツンと館内に靴音が響いた。 真っ白な法衣を揺らし、熟練度が増しているベテランの司祭は真っ直ぐに灰色の魔導師の法衣を纏うオーギュに近付く。 「前より男前になったんじゃないかな、オーギュ?」 「男前って…何も変わっちゃいませんよ。あなたこそ相変わらず人を褒めるのがお上手ですね」 苦笑いしつつ、お互い握手しながら挨拶をする。 「レナンシェ様、お知り合いですか?」 談笑中の二人に、先程の少年が近付いてきた。 レナンシェは彼の柔らかな髪に軽く指を絡ませ、ふっと笑みを浮かべる。 「大聖堂の宮廷魔導師様だよ。司聖の補佐もやっていて、とても優秀な術者だ。よく覚えておくといい」 「そうだったんですね。司聖様というと、ロシュ様ですよね。補佐役とはかなり凄い方だったんだ…知らずに失礼をしてしまって申し訳ありません」 素直に頭を下げる少年を、オーギュは「大丈夫ですよ」と宥める。 「私は単にお手伝いをしているだけなので、凄くも何ともないんです」 「あのロシュと行動を共にするだけでも凄いと思うけどねぇ。今は年を取って丸くなっているんだろうが、私にはずっと反抗期らしい」 はあ…と返しながら、オーギュは疑問に思った。 あのロシュが、レナンシェには反抗期のような態度を取っているのかと。 「あれ…仲良かったんじゃないんですか?」 首を傾げながらレナンシェに問うと、彼は意味深に微笑みながら「仲は良いよ」と返す。 「こちらがそう思ってるだけだけどね」 「………」 あまり踏み込めない話題のような気がしてきた。 「レナンシェ様」 見習いの少年はレナンシェの法衣を軽く引っ張る。んっ?と彼が反応すると、少年は「皆レナンシェ様をお待ちです」と仲間達の事を指摘した。 レナンシェはふふっと笑う。 「ではオーギュ。私達はここで。しばらく滞在する予定だから、そのうちロシュを交えて話をしようか。ほらシエル、オーギュにご挨拶をして」 ここでようやく少年の名前を知る事が出来た。 シエルと呼ばれた少年はオーギュを見上げると、まるで妖精のように可憐さを際立たせた笑みで頭を下げる。 「オーギュ様。お声をかけて頂き感謝致します」 丁寧な挨拶をこなしたシエルの頭を優しく撫でるレナンシェ。その様子から、日頃から彼を特別に可愛がっているようにも見える。 レナンシェはオーギュに「では」と声を掛け、そのまま見習いの司祭達が待つ集団へと戻っていった。 図書館から出て大聖堂内の中庭に出ると、外部からの風がするりと敷地内に入り込んで体を撫でていく。 吹き抜けとなっている為に隙間から入り込む風はなかなかの強風で、中庭の植え込みの木々がざわりと騒々しい。そんな中で、またオーギュを呼ぶ声がする。 風で少しずれた眼鏡の位置を直していると、こちらに近付いてくる足音がした。 「オーギュ様!よっしゃ、やっと会えたな!」 近付くだけで暑苦しさを感じさせる巨体。彼はオーギュの前に立ち、無邪気な満面の笑みを見せる。 図体はでかいくせに、その顔は妙に子供みたいに見えてくる。 「ヴェスカ。…何か私にご用が?」 「たまにあんたを見とかないと、俺を忘れちゃうだろ?それにあんたが寂しいと思って」 「はい?」 眉を寄せ、オーギュは目の前の勘違いを起こしているヴェスカを呆れたような目線を投げつけていた。 「何故私があなたに会えなくて寂しいと思うんです」 「寂しくねえの?俺は会わない間ずっとあんたの事思ってたけど」 何を言っているのか。 前からおかしな事を言うとは思っていたが、やはり彼の発言は理解出来ない。 「そこまで思ってて下さっても、私からは何も出やしませんよ。それでは失礼します」 ヴェスカから目を背け、オーギュはロシュの待つ司聖の塔へ向けて進もうとした。だがすぐにヴェスカの野太い手が伸び、オーギュの腕をがっちりと掴む。 彼はとにかく力が強い上に、掴んでくる手ですら固さがあった。自分の鍛錬不足のほっそりした腕を、完全に捕らえてしまう。 こんな明らかな力の差をまざまざと見せつけられると、オーギュは同じ同性として筋力の無さが恥ずかしくなり「何なんですか」と抵抗した。 「折角会えたのにすぐ居なくなろうとすんなよ!」 「私はあなたに特に用はありませんよ」 ヴェスカに関わるとろくな事が無いのは身を持ってよく知っているオーギュは、どうにか彼から離れようと彼の手から逃れようとする。 「俺はあんたに会いたかったんだよ、オーギュ様。あんたに俺の事を存分に知って貰わないと」 「別に知りたくなんか」 知ってどうせよと言うのだろう。 オーギュは掴んでくるヴェスカの手をどうにかして離そうと剥がしにかかったが、相手は熟練の剣士とあり、なかなかはがれてくれない。 彼は何度も何度も戦闘を重ねるベテランの力自慢だ。 「離しなっ…さいっ、ヴェスカっ」 「嫌だね。折角捕まえたのに逃してたまるか。あんたみたいな頭がめちゃくちゃ固いのにはこうしてはっきり態度に出した方が一番効き目があるし。なあ、オーギュ様?どっちかって言われれば、分かりやすい方がいいだろ?」 複雑に考え過ぎるタイプだろうと踏んでいた歴戦の猛者は、真っ直ぐにオーギュに言い寄り続ける。 自分はそんなに単純ではないと思いながら、あまりにもぐいぐいと押してくるのでオーギュは困惑してしまった。 「私はあなた程暇ではありませんよ」 「俺だってそんなに暇じゃねえよ。時間が空いてれば探しに来るだけの話だ。んで、やっと会えた訳。会ったら会ったであんたは逃げようとするし。そう簡単に逃がすかよ」 なかなか手を離さないので、オーギュは軽く舌打ちしながら彼を睨んだ。 「無礼な」 「俺が無礼なのは良く知ってんだろ?今更何言ってんの?分かっててこうしてるんだから無駄に抵抗すんのは諦めた方がいいぞ、オーギュ様」 …駄目だ。 彼にあれこれ言うだけでも無駄な気がしてきた。 観念し抵抗する力を弱めると、ヴェスカも分かってきたのか掴む手を緩める。 「…結局、何なんですか?」 「あの召喚獣は?」 「ファブロスですか?色々あって今は分離しているんですよ。私の部屋で休んでいます。戻るまでまだ時間がかかるみたいで」 魔書の件から一時的に意識の共有を途切れさせた為に、復活するまでにはまだ時間がかかるらしい。同時にファブロス自身も久しぶりに下界に出た疲労が蓄積されていたらしく、オーギュの部屋で眠り続けている。 オーギュの手の甲の刻印は、召喚獣の彼が戻れない為に未だに無色のままだ。 リフレッシュ後は、また意識の共有が出来るだろうとファブロス本人が言っていた。 「へえ。…なら完全に二人っきりなんだな!」 「は…はい?意味が分からな…」 困惑するオーギュは、別の場所で妙に騒がしくなる気配を感じた。一般の来訪者達がやけに色めき立っている様子から、普段見かけないような人種が訪れたようだ。 ヴェスカから目を離し、その方向へ顔を向ける。そして、ぴたりと玩具のネジが止まったかの如く彼の体は動かなくなった。 「オーギュ様?」 ヴェスカはオーギュと同じ方向に視線を合わせる。 やや離れた場所から、数人の煌びやかな人々が聖堂の奥へ進んで行くのが見えた。 「………」 再びオーギュに向き直るヴェスカ。 「オーギュ様」 あの集団はオーギュの関係者なのだろうかと彼の様子を見ながら思っていると、向こうから「オーギュスティン」と声がかかった。 オーギュは複雑な表情をしながら無言で頭を下げる。 華美な服装をしていたのは三人のみで、彼らの護衛も含めて妙な集団に見えたようだ。 あまりの派手さに一般の来訪者も驚いていたようで、視線が一気に彼らに集まっていた。 光沢のある真っ赤なドレスに、金糸の刺繍が入ったストールを優雅に纏う貴婦人。美しく髪もアップにまとめているが、そこそこ年齢は迎えている様子。そして彼女の背後には二人の正装した若者。若者とはいえ、ヴェスカと似たような年だろうか。 いずれにせよ、こちらも高価なアクセサリーを身に着けており、女性に負けじと華美な正装をしている。 「久しぶりじゃないか。相変わらず湿っぽい仕事をしているんだな」 嫌味がこもった発言に、ヴェスカは一瞬眉をしかめる。 「…お久しぶりです。兄上様、母様」 何だこいつらと気を悪くしていたヴェスカだったが、オーギュから飛び出して来た発言に「んあっ!?」と変な声を出してしまった。 兄上様と呼ばれた二人は似通った顔をしていた。 茶系のさらりとした髪の色と、目鼻立ちがはっきりしていたが、オーギュとはあまり似ていない。しかし、母親はオーギュと目元の切れ長の形が良く似ている。 母様と呼ばれた貴婦人は、オーギュを神経質そうな目線でじろじろと見た後に伏し目がちにふっと溜息をつく。 「お前も相変わらずね、オーギュスティン。ま、元気なのは良い事よ」 「ありがとうございます」 「私達の家柄に泥を塗らなければ文句は言わないわ。 精々大聖堂の仕事に集中する事よ。お前は私の期待をことごとく裏切ってきたんだから、これ以上恥をかかさないようになさい。司聖補佐役なんて、なかなかなれるものではないでしょうから」 オーギュは頭を下げ、「ええ。精進します」と返す。 「昔と変わらないねぇ。派手な俺らと比べてお前はとにかく地味で無駄に勤勉だった。お前が居ると屋敷が湿っぽくて仕方無かったよ。少しはその根暗さ直したかい?お勉強もいいけど社交性ってのを学んだ方がいいさ」 「この先も、お前は恥だと言われないように気をつけろ。これ以上母様の心象と親族のお前に対するイメージを悪くしちゃいけない」 二人の兄はくすくすと笑いながらオーギュを茶化すが、母親によって窘められ、お互い顔を見合わせ苦笑していた。 「またしばらくは会わないだろうけど、好きに頑張るといいわ。それじゃあ私達は行きますからね」 「はい。お元気で」 頭を下げるオーギュを尻目に、彼らは大聖堂内部へ向けて進んで行った。ヴェスカは呆気に取られ、その後何あれと思った事を素直に吐き出した。 「オーギュ様が恥だと?あれでも身内なのか?」 「………」 「恥ずかしい事なんかあるもんか。どこに目ぇついてんだよ」 「ヴェスカ、やめなさい」 慰めのつもりなのか、彼らの感じの悪さに憤慨しているのか分からないが身内の話を広げたくなかったオーギュはヴェスカを止めようとした。 「普通あんな風に喋るもんなの?めっちゃ馬鹿にしたように言ってくるじゃん。何であんたも反論しないんだよ?おかしいだろあんな」 「…ヴェスカ!!」 ヴェスカの言葉を遮る形で、オーギュは彼を止めた。 「それ以上言ったら怒りますよ」 「…オーギュ様」 身内の文句は聞きたくないのだろう。 気持ちは分かるが、でも。 「すみません」 …素直に謝った。 世の中には、自分の感覚では考えられないものがある。それは良く分かっているつもりだ。 それなのにヴェスカは、あの三人の身内とも思えない発言が理解出来なかった。 家族なのに恥だとか、家に泥を塗るなとか、裏切りだとか身内相手に普通に口に出せるものなのだろうか。彼らから見れば底辺の自分から見ても、オーギュはかなり優秀だ。 それを鼻で笑うのはいくら何でも酷過ぎるのではないか。 「では私は戻りますね。あなたも帰りなさい」 ふと、ヴェスカはある事を思い出した。 以前彼にボールをぶつけ、昏倒した際に呟いた発言。 どこまでも私を否定なさるのですね、と。 モヤモヤするヴェスカの気持ちは、すぐに行動に現れていた。手を伸ばし、再びがっちりとオーギュの右腕を掴む。 「痛っ、何ですか」 急に強く掴まれ、彼は顔を軽く歪めてしまう。ヴェスカはそれに気付き力を緩めながら「逃すかっての!」と言った。 まだ何かあるのか。 オーギュにとって、ヴェスカはこの上なく面倒臭い相手であり苦手なタイプだった。だから早く退散したいのだ。 「休む時間位あるだろ?少しだけでいいから俺と一緒に居てくれよ」 むさ苦しさに拍車がかかるような熱量のある発言に、オーギュは引き気味になる。だがヴェスカは全く気にもせずに更に畳み掛けてきた。 「………」 「一緒に居てくれないならここであんたへの愛を叫ぶぞ。いいのか」 「!!!」 彼が息を吸い込み、叫ぶ準備をしようとすると同時に「わ、分かりましたよ!!」と顔を真っ青にしながらオーギュは止めた。 こんな人目が付く場所で変な事を叫ばれたりしたら、要らない問題が増えてしまう。 困惑するオーギュとは違い、ぱあっと少年のように無邪気な笑みを浮かべるヴェスカ。 赤い短髪も相まって、まるで夏場の太陽のようだ。 「やった。言ってみるもんだな」 「本気で叫びそうだから困るんですよ!じ、冗談でもそんな事言わないで下さい」 「おっ、叫んで欲しいのか?」 「人の話を聞きなさいよ、困ると言ったんです!」 お堅いオーギュの真面目過ぎる反応が楽しくて、ヴェスカはついにやけてしまう。 自分とは全く違うタイプだからこそ、関わる度に新しい発見があるから更に突いてみたくなるのだ。 「ああ…もう。少しだけですからね。そんなに言うなら、私の部屋であなたの用件を聞きましょう」 「ばっ…!それじゃあ意味が無いだろ!俺はあんたと二人っきりがいいの!部屋に行けばあんたの召喚獣が居るだろうが!」 「問題がおありなようで」 眉を寄せて不満そうなオーギュ。 「めちゃくちゃあるわ!!」 どこまで鈍いのだろう。二人っきりになりたいのを、これでもかとアピールしているのに。 「面倒臭えな、完全に二人で居たいって言ってんのに何でそうくるかね!?あんたいい年して誰とも付き合った事なんか無いだろ!」 「…は…はぁあああ!?」 かあっと全身が熱くなる。 今まで勉強やら魔法漬けの毎日で、特別に誰かと親密になった経験が無いオーギュはヴェスカの発言に対して「下品な!」と吐き捨てる。 「あなたにそこまで踏み込まれる言われはありませんよ!ならどこに行けと言うんですか!」 「なら俺に任せとけ!あんたに合わせたら回りくどいし全っ然話が進まねぇ!ほらっ行くぞ!」 あまりの話の進まなさに苛立ったヴェスカは、オーギュの細い手首をしっかり掴むと強引に引っ張って歩き始める。 急に動き出してしまうので、一瞬かくりと傾いた。 「どこに行こうとするんです!」 「あんたが気晴らし出来るような場所を探すんだよ!」 「気晴らしって…」 大聖堂の正面入口を抜け、来訪者とすれ違いながら城下へ繋がる階段を降りていく。高い場所にある大聖堂から見渡せる街は、遠くからでも活気に満ちた様子が垣間見え、晴れ渡る青空の爽やかさが更に街の明るい雰囲気を増幅させていた。 階段周りは多くの植え込みが張り巡らされ、鮮やかな緑色が大聖堂を取り囲んでいる。つんとする青臭さを感じながらヴェスカに引っ張られたオーギュは、行き交う人々にぶつからないように気を配りつつ「あまり遠くには行けませんよ!」と叫んだ。 軽快な足取りでオーギュを引っ張るヴェスカは、ちらっと彼に向け振り返ると「分かってるって」と歯を見せて笑う。 「そんなに遠くには行かねえよ。あんたも忙しいだろうしな」 忙しなく街の中をひた走り、店舗が立ち並ぶ街道に出る。人々の波を上手くすり抜けながら、ヴェスカは慣れた様子でオーギュを引っ張りつつ、賑わっているエリアを抜けていった。 やがて城下街の外れに進み、次第に人の気配が薄れていくのに気が付いたオーギュは、どこかの穴場の人気店に行くのかと思っていた。 店舗や露店が並ぶ通りから外れた小さな小道に入り込む。住民以外はあまり通らないような場所へ踏み入れていくなり、オーギュは不審がってヴェスカに問いかけた。 一般住居が所狭しと建てられ、建物と建物の間には洗濯物などがはためいている。 「ヴェスカ、どこへ…」 「あんたが落ち着けそうなとこに行くんだよ!騒がしい場所は嫌いだろ?」 「まあ、そうですけど…」 大の男二人で街中を走る様子はなかなか滑稽なものとして見えるらしく、住民達や単に通り掛かる人々の目を引いてしまう。 遠巻きながらも大聖堂の関係者であるオーギュを知る者達には、何か事件があったのかと不思議そうな顔のまま彼らを見送っていた。 「よし、着いた。オーギュ様、この階段上がるぞ」 住居すら少ない完全な街の外れ。 大聖堂からやや離れた場所に位置し、森のエリアに入る寸前の少し鬱蒼とした雰囲気。 オーギュは周囲を見回し、「階段って…」と愕然とする。ほぼ緑に埋め尽くされ、手入れすらされていない小さく古い階段を見るなり、どういう事かとヴェスカに非難めいた目線を送る。 辛うじて上がれる位の広さはあるだろうが、虫が体に付くかもしれないのに彼は平気なのだろうか。 「いいからいいから」 「そもそもあなたが嫌いな虫が沢山居そうな場所を敢えて選ぶとは」 「見ないようにするし全力で突き抜けるから平気!」 まるで子供のような発言だ。 駆け上がった先には何があるのだろう。 オーギュはちらりと上に目を向けた後で、分かりましたよと呆れた口調で言う。 「走り続けて疲れましたから、先にあなたがその目的地に向かって下さい」 「んっ?おんぶして欲しいのか?」 「誰もそこまでして欲しいなんて言ってませんよ。私は後から向かいますから」 きょとんとした顔を見せたヴェスカだったが、にっこりと笑顔で「分かった」と告げる。そして絶対来てくれよな、とオーギュに言い残しダッシュで階段を駆け上がり始める。 「ああああ、怖ぇえー!!」 階段を覆う緑がざわざわ蠢いていた。それを眺めながらオーギュは彼がどこに向かっていくのかを見守る。 悲鳴を上げる程虫が嫌いなのに、敢えてここを選ぶとは相当気に入った場所なのだろう。 緑の蠢きが止まり、ようやくヴェスカの姿が確認出来るようになった。どうやらごちゃごちゃしていたのは階段だけのようで、拓けた場所があるようだ。 彼はこちらに向けて手を振り、「こっちは大丈夫みたいだ」と叫ぶ。 青臭さか鼻を突く中、オーギュは魔法で体を浮かせるとヴェスカが待つ場所まで悠々と飛行した。 「な、何だそりゃあ!?ずるいなオーギュ様!」 あんぐりと口を開けながら、彼が近付いてくるのを見守った。ささやかな風がヴェスカの体を撫でる。 砂煙を少し巻き起こしてヴェスカの目の前で着地するオーギュは、風で乱れた黒髪を直しつつ「仕方ないでしょう」と文句を跳ね除けた。 「私は魔法使いなんですから」 「じゃあ俺ごと持って行ってよ!」 「無茶言わないで下さいよ、あなたみたいな筋肉の塊を持ち上げて飛ぶとか絶対嫌です」 同じ大人でも流石に体格差があり過ぎる。 魔力を使うよりも重さで苦心しそうだ。 「はあ…いいなあ。俺も浮かんでみたいわ…」 「あなたには並外れた体力があるからいいでしょう。お互い無い物ねだりするのは不毛です」 不満げなヴェスカを宥める。 「そりゃそうだけどよ…っと、そうだそうだ!体に虫とか付いてないかなっ?怖いからちょっと見てくれよ!」 女子か!と突っ込みたくなったが嫌いなら仕方が無い。 言われるままにヴェスカの身の回りを確認し、付着した葉を払ってやると「大丈夫ですよ」と安心させる。 図体がデカい癖に無駄に小心だ。 ベテランの域に達している彼の体型は、上半身はがっしりしているものの腰は引き締まり逆三角形と言われる理想的な体をしている。 対する自分は彼の体にすっぽり入りそうな痩せ型で、とにかく同じ同性として頼り無い。 ガリガリまではいかないが、あまり彼と並びたく無かった。 「そっかあ、ありがとオーギュ様」 「いいえ…」 言いかけたオーギュの右の耳元へ、ヴェスカが顔を寄せてくるのを感じる。温かな吐息が近付いた瞬間、オーギュの体が勝手に動いていた。 「ふっ…ごっ!!」 まるで中身が出そうな呻き声。 ずしりと鳩尾に重苦しい拳を喰らったヴェスカは軽く腹部を押さえて体を折り曲げる。 「はあ…私も体を鍛えなきゃいけませんね。あなたへの対策を練っておかないと」 「ゆ、油断したぁ…」 「私の力じゃたかが知れてますから、あなたはすぐに持ち直すでしょう。魔法じゃないだけ有難いと思いなさいよ。魔法だと加減出来ませんからね」 耐性の無いヴェスカには恐ろしい話だ。 「すいません許して下さい」 怖くて悪戯心を持った事に対して頭を下げる。 「それにしても…」 オーギュは登った先から、改めて景色に目を向ける。 街の外れから見下ろす景色はこれ程までに絶景なのか。 「知らなかった。アストレーゼンの街をこんな風に見渡せるなんて…」 今までは司聖の塔から遠くに見える街しか眺めた事が無かった。街を近くに感じながらも、遠巻きに眺められるという不思議な感覚。 街から少しだけ離れ、木々の緑を視界に含めて見渡すと、まるで生きた絵画を見ているような心境だ。 「良くこの場所を見つけましたね、ヴェスカ」 「いや…ほら、害虫駆除とかよくやるからさ。この場所も昔からあるんじゃないかな。不自然に拓けてるし、目立たないから逢引とかに使われてそうな広さだし…」 「はあ、逢引ねえ」 「じゃあ俺らも真似して逢引の場所として使」 「嫌です」 ぴしゃりと即答した。 「そ、即答すんなよ!傷付くだろが!」 「だって嫌ですから」 膨れていじけるヴェスカを横目で見ていたオーギュは、「いい大人が拗ねないで下さいよ」と呆れる。 まるで子供のようだ。 「あなた私より年上なんでしょう」 「いくつに見える?ギリ二十代位かな?」 「二十代…?実際何歳なんです」 「さ…三十二」 「は?さんじゅう…」 その割にはあまりにも子供っぽい。 「三十二だよ!うるさいな!」 「自分から話を振っておきながらうるさいってどういう訳ですか!」 ヴェスカの内面は子供っぽいが、外見は厳つさもあり二十代にはあまり見えない。年相応だと思う。 「三十二なのに本当に子供っぽいですね。親御さんも苦労してるでしょう」 「ん?親ぁ?そうだなあ、むしろ家で食っちゃ寝する位なら馬鹿力使う仕事してろって追い出された口だからな」 遠くの景色を眺めながらヴェスカは軽く笑った。 オーギュは目を丸くしつつ「追い出されたんですか」と意外そうに返す。 「いや、そんな重苦しいやつじゃないけどさ。俺、リンデルロームから来たんだよ。地味な村だけどあんたなら分かるだろ?革細工職人の村」 「ああ…あなたそこからの出だったんですか?繊細な彫り込みがありながら丈夫な革製品で有名な所ですね」 アストレーゼンから北西、かなり遠方にあり馬を走らせると休憩込みで約一日半強はかかる距離の村。 どのような村なのかは写真や絵でしか分からなかったが、革細工は有名だった。 「そうそう。俺さ、親父が職人なんだよ。一応跡継ぎ扱いで勉強はしてたんだけどさあ…どうにも不器用みたいで折角の材料をことごとく破いたりしちゃうんだよ。お前は馬鹿力過ぎて向いてないから、跡を任せられねえって。加減はしてるんだけどどうも難しくてさ」 彼らしいと言えば彼らしい。 オーギュは「そこまでですか?」と疑問符を投げた。 「うーん…薪割りとかなら全然苦じゃ無いんだけどなあ」 「だからここまで来て剣士になったんですね」 「そうそう。お陰で仕送りして新しい工房付きの家を建てられたからな。弟子も居るから跡継ぎは問題無いんだ。あんたさえ良かったら連れて行ってやるぞ、オーギュ様。リシェも連れて行ってやりたいしな」 こんななりをしていて意外に親孝行のようだ。 内心、オーギュはヴェスカを見直していた。宮廷剣士は無骨で他は無頓著なタイプだと思っていたのだ。何も考えていなさそうだったから、家を建てられたという発言は余りにも意外過ぎた。 彼の誘いに、オーギュはふっと微笑む。 「奔放なあなたが育った村なら、きっといい村なのでしょうね」 「田舎過ぎて牛とか鶏とかめちゃくちゃ居るけどな」 「のどかそうでいいじゃないですか。そんな場所でゆっくり読書をしたいものです」 真面目な彼の発言に、ヴェスカはオーギュ様らしいなと笑った。 「じゃあ時間が合えば一緒に行こう。きっと皆喜ぶと思うよ」 「ええ。必ず」 やった、と無邪気に笑うヴェスカ。その時、オーギュは彼の左肩に蠢く小さな物を発見して「あっ」とつい声を上げた。それは鮮やかな緑色で、背には赤や黄色の模様が付いている。 きょとんとした様子のヴェスカ。 「少し屈んで貰えます?」 「何、どういう事?キスでもしてくれんの?」 彼は期待に満ちあふれた顔をするが、真実を知れば絶望感に襲われる顔をするのが容易に想像できた。 知らせない方がいいのかと思い悩む。 「しませんよ。いいから屈みなさい」 「な、何でだよ?どういう事だよ」 「知ったら卒倒するでしょうが。目を閉じなさい」 訳が分からないままのヴェスカだったが、やがて目の端で不気味な色をした物が蠢いているのに気付いた。そろそろと眼球を動かし、それが何なのかを理解した瞬間冷や汗を流し始める。 動悸が激しくなり、呼吸も苦しくなった。 「オーギュ様!!」 階段を駆け上がった時について来たのだろうか。 確認して貰ったものの、それが甘かったのか。 「だから屈めって言ったのに。…ほら、取りましたよ」 木の棒を用いてひっついてきた芋虫を取り除くと、ヴェスカの足元にぽたりと落下した。 ひっ、とそれを見て恐怖に慄く。 「いやあああぁああああああ」 目の前で女子のような悲鳴を上げられ、オーギュは咄嗟に耳を塞いだ。 だからこいつと一緒に居るのは嫌なのだと思いながら、「うるさい!!」と叫ぶ。 地面でうねうねと動く芋虫を木の枝で拾い、呆れながら別の場所へ放ると、恐怖に顔をひきつらせるヴェスカに目を向けた。 巨体の厳つい男が芋虫相手に泣きそうになりながら震える姿など、普段は拝めないだろう。 「捨てましたよ」 「…ほんと?もう居ない?」 「棒ごと捨てましたから」 「後で嘘でしたとか言ったら激しいキスするからな!ほんとだな!?」 「面倒臭い人ですね!捨てたの見たでしょうが!」 そこでようやく信じたのか、ヴェスカはのっそりと立ち上がると良かったあ…と気を緩める。 遠目で確認出来る大聖堂の時計塔の時刻をちらりと見上げ、オーギュは「そろそろ行かないと」と呟いた。 「えぇ、オーギュ様。もう行くの?」 「仕事があるので」 改めて遠目で見る街の景色に目を向けた後、風に遊ばれた髪を整える。 ヴェスカも同じように周りを見回していると、右側方向の木の密集地帯に屋根らしい物がある事に気付き「あれ」と呟く。 オーギュはどうしました?と反応した。 「あんな奥に家なんかあったのか。知らなかった」 ヴェスカに言われるままに視線を同じ方向へ向ける。確かに、木の葉に紛れ込む青く尖った屋根がぽつりと見えた。 年季の入った建物なのか、屋根が少しはがれ気味だ。 住んでいる者は居なさそうにも見えた。 「どなたかの別荘なんですかね?」 「完全に日陰じゃん。住みにくそうだな」 よくあんな場所に建てようと思ったなあとヴェスカは思ったが、色んな物好きが居るのだろうと勝手に結論付ける。 「では、私はここから大聖堂に戻ります。あなたも気を付けて帰りなさい」 「オーギュ様」 少しでも気分転換になっただろうか。 ヴェスカが彼の名を呼ぶと、オーギュは何ですかとこちらを見上げた。 「また俺に会ってよ」 身分が違い過ぎるのは良く分かっている。 だがどうしても気持ちは止められなかった。繋がりを無くすのは嫌なのだ。 オーギュは「そうですね」と返す。 「あなた程面倒な人は見た事が無いですが、たまにはお会いするのも悪くないですね。それに、あなたの故郷にも興味がありますし」 それを聞くなり、ヴェスカは飼い主を見るペットのようにぱあっと明るい表情を見せる。 「マジで!?」 やたら目を輝かせるヴェスカを半ば引き気味で見上げながら「何でそんな顔をするんですか」と訝しんだ。 「えっ?えぇー?だってそうなるじゃん。また会ってくれるんでしょ?」 ずいっとオーギュに食い気味に近付く。 元々浅黒い肌で、鍛えられた筋肉質の体型のヴェスカは近いと更に威圧感を与えてくるが、先程の芋虫を怖がる様子を目の当たりにしたオーギュは全く圧を感じなくなっていた。 「は、はあ…」 「良かった!」 安心した笑顔を向けられたオーギュは、思わず脱力しそうになる。こんなに自分に踏み込んでくるタイプは見た事が無かった。 つい引き込まれそうになる自分を押さえる。 「では私はこれで失礼します」 こくこくと頷くヴェスカ。しかも笑顔。 何なのだろう。 彼のペースに巻き込まれないように退散しようと、オーギュは魔法を用いてその場から浮かび上がった。 「オーギュ様!」 まだ何かあるのかと下に居るヴェスカを見下ろす。 するとヴェスカはいつもの無邪気な顔で続ける。 「俺はあんたがまだ好きだからな!!」 「…なっ…!!」 浮遊させる魔力のバランスが崩れそうになった。 「あんたが好きだ!嘘じゃねえぞ!ちゃあんと覚えとけよ!!」 馬鹿正直も、ここまで来ると怖くなった。 オーギュは「か、かっ…」と言葉を失いつつもどうにか正気を保とうとするものの、ヴェスカの発言に顔を真っ赤にしていた。 「勝手に言ってなさい!!」 やはりヴェスカと一緒だと自分のペースが狂う。 素直なのか馬鹿なのか。 えへへと笑顔を向けてくる大男を振り切るように、オーギュは大聖堂へと浮遊する。 彼の視線を感じて複雑な気持ちに陥っていたが、不意に自分の心境の変化に気付いた。 …いつもの悲観的な気持ちが消えている。 母親と兄達に再会して鬱々としていたのに、今回はそれが全く無い。 オーギュは後を振り返る。彼はまだ、笑顔で手を振って自分を見送っていた。 宮廷剣士の兵舎内の奥にある事務室で報告を済ませた後、何故か士長のゼルエに顔色があまり良くないと指摘されたリシェは、そのまま帰って休めと告げられてしまう。 大丈夫ですと言葉を返したが、彼が所属する二班はあまりする事は無いぞと言われてしまい、仕方無く司聖の塔へ戻ろうとしていた。 スティレンも同様、夜中の出来事と乗り移られた反動が来たのか顔色が良くないと言われて急遽公休扱いされ、嬉々としてリシェより先に寮へと帰ってしまった。 戦闘の練習をしている掛け声を聞きながら、リシェはとぼとぼと歩きながら練習場を眺める。 足を止めて窓辺に張り付いて見ていると、練習をしていた剣士の中に紛れていたラスが声をかけてきた。 「先輩」 「ん」 「何してるんですか、そこで」 張り付いていたリシェの様子がやけに恨みがましい目をしているように見えたのだが、よく見ると目の下にクマが出来ている。 「疲れてますか?」 「そう見えるのか?大丈夫なんだけどな」 「さっきスティレンが嬉しそうに帰って行きましたよ。今日は任務免除だって。先輩もそうなんですか?」 リシェは頭をかくりと傾かせ、自分の肩をトントンと叩くと「ああ」と返した。 「色々あったから…下手な肝試しよりもしんどかった」 「?」 思い出すだけでも疲れが湧いてきそうで、なるべく思い出したくなかった。 「後で話聞かせて下さいよ。先輩、今疲れてるでしょ。休んだ方がいいですよ」 「そうか」 「スティレンなんてめちゃくちゃ張り切って帰って行ったし。元気そうに見えたけど元から白いから分からないや」 彼の場合、単に休みになった事が嬉しいのだろう。 ラスはリシェの両目の下を軽く指でぐりぐりと弄ると、「このクマはヤバイです」と指摘する。 「そんなにか。それなら休もうかな」 「それがいいと思います」 そんなに酷いのかとリシェは思った。 「少し寝たら治るかな?」 「治ると思いますよ」 寝るか…と目元を擦ると、彼はラスに戻るよと告げる。 ラスはにっこりと笑いながら「はい。また明日」とリシェを見送った。 練習場から離れ、目元を軽くマッサージしながら大聖堂方面へ足を進めて行く。絶えず訪れる来訪者を避けながら階段を上がると、真っ白な法衣の集団が目に付いた。 見た感じは司祭の法衣を身に纏っているが、年齢的にまだ若い者が多い。旅の途中で、ここに巡礼をしに来たのかもしれない。 「あ!」 不意に声がどこかで上がった。 彼らを横目に司聖の塔へ足を進めると、ふわりと強い風がリシェを撫でる。 「!」 目の前を、薄い布が横切った。反射的にそれをキャッチすると、パタパタとこちらに近付く足音がする。 「す、すみません…それ、僕のハンカチです」 「ん?…ああ、これか」 リシェは掴んだ水色のハンカチを丁寧に畳むと、近付いてきた相手の顔を見ながら手渡した。 同じ年頃の、真っ白な法衣の少年。 キラキラした金色の髪と青く大きな瞳の彼は、その透き通るような目でリシェの姿を捉えてくる。彼がそこに居るだけで、春が訪れたかのような華やかな雰囲気を放っていた。 …家で見た人形みたいな顔をしてるな。 若干ぶかぶかの法衣を整える相手を見ながらリシェはそう思った。 「ありがとうございます」 「いや…目の前で飛んできただけだから」 「良かった。大切な物だから」 ハンカチを手で包みながら、彼は安心したようにふわりと笑う。 そのハンカチが?と首を傾げていると、少年の名を呼ぶ声が聞こえてきた。 「シエル」 「はい!」 明るい口調で返事をした彼が振り返った先には、リシェが見かけた白の集団が居た。 その中で、保護者らしい司祭が微笑んでいる。 「おや、君は…」 少年らに囲まれた司祭が近付いてくるとこんにちはと頭を下げた。 「こんにちは」 リシェも彼に応じて頭を下げ挨拶を返す。 背の高い司祭はリシェを見るなり意味ありげに呟くと、なるほどと何かを納得したかのような仕草をした。 「すみませんレナンシェ様。風でハンカチが飛んでしまいました。この方がキャッチしてくれたんです」 シエルと呼ばれた少年が保護者の司祭に報告をすると、彼は低く穏やかな声で応じる。 「ほう、良かった。ちゃんとお礼は言ったかな?」 「はい!」 「私からもお礼を言おう。ありがとう。…君の名前を教えて頂けないかな?」 ロシュとはまた違うパターンの司祭だなと思いながら、リシェは自分の名前を彼に教えた。 「リシェ=エルシュ=ウィンダートです」 「リシェ君、か。では君がロシュ専属の剣士かな?」 ロシュの名前を耳にすると同時に、リシェはすぐに反応する。 「はい。ロシュ様の護衛を任されています」 「そうか…君がロシュの、ね」 彼は意味深な様子で呟いた後、ふふっと微笑んだ。 「昔、あの子の世話をしていたのでね。護衛の騎士様を付けるまでになったとは成長したものだよ。私はレナンシェ=アイシェス=エルゼリオ。レナンシェだけで構わないよ」 「流石に呼び捨ては出来ません、レナンシェ様」 好意で呼び捨てでもいいとは言うものの、司祭を相手に無礼な呼び方は憚られてしまう。しかもロシュの世話をしていたとなれば、余計失礼な事は出来なかった。 生真面目さにレナンシェはつい吹き出した。 「君はとても真面目だねぇ。うちのシエルと真面目さを競える程だ」 ちらりと先程の少年に目を向ける。彼はリシェと目が合うなり、にっこりと微笑んで見せた。 ロシュ以外にあまり笑う事が無いリシェは、それに対してどう反応していいのか分からなくなる。 「ロシュ様にはお会いしたんですか?」 「ああ、さっき少しだけね」 「そうなんですね。まだお会いしていなかったら、ロシュ様にお知らせしようと思いました」 レナンシェは苦笑いしながら「ロシュは私に対して反抗期真っ最中なんでね」と風に乱れる髪をかき上げ、自嘲気味に言った。 訳が分からず、リシェは目を丸くした。 「反抗期…?」 「昔をあまり思い出したく無いのさ。時が経つのを待つしか無い」 「………」 あまりそこを深入り探ってはいけない気がした。 するとシエルがレナンシェに声をかける。 「レナンシェ様、お祈りの時間です」 「お…そうだね。時間にはきちんと従わないと。…ではリシェ君、また会おう」 ふわりと爽やかな笑みを浮かべながらレナンシェはリシェに告げると、連れ立っていたシエルを従わせて白い集団の方へと戻っていく。 リシェはそれを見届けた後で、レナンシェが言っていた反抗期というセリフに心を引っ掛けながら塔への道を歩き始めていた。 塔へ戻ってきたオーギュは、珍しく塞ぎ気味のロシュに違和感を覚えていた。 何かを言っても半分上の空で、こちらから話さないとあまり会話もして来ない。ぼんやりしたかと思えば、急に何かを思い出したかのようにさかさかと動き始める。 仕事に差し支えが無ければ問題は無いが、見ていても明らかに朝方とは違う動き方をしていた。 「ロシュ様」 眉を寄せ、不可解さをむき出しにしてオーギュはロシュに声をかけてみる。 「…はい?」 「様子が変ですよ。どこか具合が悪いのですか?」 「悪くはありませんけど」 「そうですか?心ここにあらずみたいな様子ですよ」 指摘され、ロシュはつい全身の力を抜いた。 「はあ。…どうも気分がぞわついてしまう」 「レナンシェ殿がアストレーゼンに来たからですか?」 既に聞き慣れた名前を耳にするロシュは、ぴくりと反応してしまった。その僅かな反応にも長年の付き合いであるオーギュは見逃さない。 手にしていた書類の束をまとめながら、やはりねと呟く。 「あなたはあの方絡みになると急に意固地になりますね。お世話になった方でしょう」 「ええ。さっき会いましたし」 「何だ、お会いしたんですか…だからやたらそわそわしていたんですね。何を動揺しているんです」 「…あの人、まだ私を子供扱いしてくるんです」 やけに膨れっ面のロシュ。 「そりゃ、あの方はあなたの先生みたいなものでしょうから当然じゃないですか」 少年時代からの知り合いで、しかも魔法の扱い方や勉強も見てもらっていたのに、何を今更言い出すのか。 ロシュは書斎机の大きな椅子に腰を下ろし、ちらりとオーギュに対し上目遣いで見上げると「引きませんかね?」と改まったように問う。 「はい?」 「いやあ…あのう、引くかと思って」 「何がですか?分からないからさっさと言いなさいよ」 促すと、彼はもにょもにょと小さく呟いてくる。 「聞こえませんよ」 「………」 「あなたは私に聞かせたいんですか?聞かせたくないなら喋らなくてもいいですよ」 いい大人がはっきりしないのは良しと思わないオーギュは、なかなか明確に言葉を放たないロシュに言った。 しかしまだ彼は俯き、もにょもにょしている。 「…はっきり言いなさいよ!煩わしい!!」 気持ち悪いんですよ、とついにオーギュは短気を起こした。なかなか喋らない上に、女々しい態度が更に苛立ってしまう。 先程のヴェスカとは真逆だ。 その勢いに、ひゃあ!と叫び声を上げるロシュ。 「いや、その…!あの人、私の初めての相手で」 「……?」 「未だにからかわれるというか」 「何が初めてなんです?」 文章のパーツが足りない。 「その、体の関係というか」 ようやく明確な発言が出てくると同時に、扉がノックされリシェが入ってきた。 あまりにも変な情報が耳に届いた為に、ノック音が聞こえなかったオーギュは「は?はああ??」と声を上げていた。 「失礼しま…」 「何してたんですかあなた方は?体の関係って…よ、よくもまあ司祭という立場でそんな、はしたない!!」 いかにも潔癖なオーギュらしい発言だった。 「は、はしたないって…昔の事ですよ!だから今こうして葛藤しちゃうんじゃないですかっ」 ドン引きするオーギュに対し、ロシュは椅子から立ち上がって反論する。 「ロシュ様?」 二人の言い合いに割り込む形で、リシェはオーギュの隣側にひょっこりと姿を見せてきた。 わあ!とロシュは悲痛な叫びを上げる。 「誰とですか?」 「り、リシェ…いつの間に」 慌てるロシュに対し、リシェは「つい先程ですけど…」とゆっくりした口調で返す。 「でもちゃんとノックしましたよ」 「そうなんですね…えっと…お、お話を聞いてたんですか?」 「扉を開けたら聞こえてきました」 驚いて大声を上げてしまったオーギュは、つい咳払いをして誤魔化していた。 リシェが気分悪くしなければいいのだが。 「あの、昔の話なんですよ。リシェ、あまり気にしないで下さいね」 「はい。気にしませんけど…」 ちらりとリシェは机を挟んで向こう側に居る主人を見上げる。彼なりに気になるらしく、オーギュにも視線を向けていた。 オーギュは困った様子で再び咳払いをする。 「若気の至りなんでしょうが、くれぐれもリシェに影響が無いようになさいよ。この子にはまだ刺激的です」 「わ、分かりましたよ」 弱々しくロシュは椅子に腰を下ろした。 既にリシェに対して刺激的な事をしているのだが、オーギュが知れば烈火の如く怒りそうだ。 「あの…俺は何に気をつけたらいいんでしょうか…」 話に置いてけぼりの状態のリシェは困惑しながらロシュに問う。とにかく訳が分からなすぎるようだ。 「えっと…今ここにある司祭が滞在しています。昔からの私の知り合いで」 言いにくそうなロシュの話に、ぱっとリシェは顔を明るくした。ようやく内容を理解出来そうだと安心する。 「ああ、レナンシェ様ですか?さっきお会いしましたよ」 「は…っ、はっああああ…!!」 再びがたんと椅子から立ち上がった。慌てふためきながらロシュはリシェに駆け寄ると、彼の目線に合わせて屈んでぺとぺととその細身に触れ「何かされませんでしたか!?」と問う。 何かをしているのはあんたじゃないかとオーギュは心の中で突っ込んだ。 「初めてお会いしたのでご挨拶位ならしましたけど…」 「それだけですか!?それだけですよねっ?ねっ?」 「はい。他は特に何も無いです」 それを聞いたロシュは、リシェをきつく抱き締めながら良かったぁと安堵の声を上げた。 「さすがに初対面で変な事はしませんでしょうに」 「いや、あのレナンシェですよ!?リシェのようなタイプはあの人の趣向を考えれば、ストライクゾーンど真ん中なんですよ!長年の付き合いだからこそ良く分かります!」 すりすりと撫でられるがままのリシェ。 「?」 「リシェは私の大切な騎士ですから、とにかくあの人の魔の手から守らないとなりません!」 脱力しそうだ。 オーギュは稀に悩まされる偏頭痛に苛まれつつ、ロシュのめちゃくちゃな言動に冷静に突っ込んだ。 「あなたの護衛剣士をあなたが守るんですか…」 本末転倒ではないか。 ロシュの中でレナンシェはどれだけ驚異的な存在であるかは知らないが、大袈裟ではないのだろうかと思った。 「とにかく、あの人には気をつけなさいリシェ。二人っきりにはならないように…誰かと常に一緒に動くように心がけて」 レナンシェがどのように危険なのかが良く分からないが、そこまでロシュが言うなら心に留めておいた方がいいのかもしれない。 第一印象はそこまで悪くは無いのだが。 「あの、あのお方のどこに気をつけたらいいのでしょうか…」 オーギュはカップにコーヒーを入れて飲み始めていた。 室内にある物は好きに使っても構わないとロシュは予め告げていたので、お茶を嗜みたい時は自由に煎れる事が出来る。 そしてやはり主人の発言の意図を理解出来ず、困った顔をするリシェ。そんな彼に、ロシュは彼の肩をがしっと押さえながら強い口調で説明しだす。 「紳士のように振る舞いますが後で牙をむいてきます。まだあなたは初対面ですし理解出来ないでしょうが、気をつけるに越した事はありません。あの人は私にもそうでしたから。明確に言うと、馴れ合い過ぎるとあなたは彼に犯されます!!」 オーギュはその直球過ぎる言い方に、ついブフォッと口に含んだコーヒーを吹き出していた。 「げほっ!!げほっ…うっ」 だらだらと口から零れたコーヒーを慌てて紙で拭く。 リシェは珍しく苦しみながらよろめいているオーギュを唖然としながら見ていた。 変な場所に入ったのか、しばらく咳込んでうずくまっている。 「ロシュ様、オーギュ様が…」 「はあっ、は…げほっ…そこまで馬鹿正直に言うんですか…」 眼鏡に付着した水滴を拭き、弱々しくオーギュは呟いていた。普段落ち着いている彼からは想像も出来ないような珍しい表情だ。 「会ってしまったなら仕方ありません。先に教えておいた方がしっかり予防出来ますからね」 「は、はい…」 「魔除けでもあればいいんですけど…ああ、こんな事なら前もって作っておけば良かった!あなたに悪い虫がつかない様にしないといけないのに」 リシェを前にして、ロシュは苦悩していた。 「リシェにとっての悪い虫はあなたじゃないですか…」 「わ、私のどこが悪い虫ですか!こんなにこの子の身を案じているのに!」 どうやら彼には自覚が無いようだ。 リシェが彼の護衛役に就かなければ、こんな余計な心配事は完全に回避出来たかもしれないのに。 むしろリシェを側近にする事で更に悩みが増えてしまうのを、ロシュは全く気付いていない。 「とにかく私がリシェにくっついていればどうにか防げるでしょうけど…」 「ロシュ様、俺は大丈夫です。自分の身は自分で守れますし…いざとなれば逃げられますから」 力はヴェスカには及ばずとも、リシェは身軽さがある。 何かあったとしても逃げ足は自信があるのだ。 「それに、お立場のある方がご自分の身を滅ぼすような暴挙に出るのは考えにくいですよ」 リシェは苦笑いしながらロシュを宥める。 「…と、とにかく気をつけて下さいねリシェ。あの人は完全に善とは言い切れませんから」 どうしてもロシュは不安が拭いきれなかった。 それは自分が毒牙に引っかかってしまったからなのか、リシェが当時の自分と同じ位の年齢だからなのか定かでは無いが、彼に注意を促しても気持ちのモヤつきが離れない。 とにかく今はあのレナンシェからリシェを守りたい一心だ。 「あなたがそんなにまで警戒するとはね」 「警戒するには他にも理由があるんです。それは私が実際に体験した事ですから」 体を重ねる度に服用していた魔力を上げる薬。 あれは媚薬も込められた物なのだろう。 服用し続ければ基本の魔力は上がるかもしれないが、体に負担がかかってしまう。しかも媚薬込みだとすれば、更に体への影響が出てくるはずだ。 まだ魔力が備わって間もないリシェが飲めば、半人前の彼の体が耐えきれなくなるかもしれない。 「そのうち挨拶にこの塔にも来ると思いますけど、その時は彼に会わないようにご自分のお部屋に居なさい。いいですね、リシェ」 「はい、ロシュ様」 理解してくれたリシェの言葉に安心すると、ロシュはその細身の体を優しく抱き締めた。 翌日、リシェは自室のベッドで温かい毛布に包まり微睡んでいた。 ロシュにプレゼントされた熊のぬいぐるみを抱き締め、薄いカーテンの隙間から遠慮無く入り込んでくる日の光を避けるように背を向ける。 そんな中、ロシュは静かにリシェの部屋に入る。 早く目が覚めてしまい、何げなく寝顔を見たくなったのだ。 微睡みから、再び深く寝息を立て始めるリシェに、ロシュはほっと安心するように優しく微笑む。 リシェがこの塔内の部屋に住み着くに当たって、急いでロシュが片付けや清掃を行ったものの、リシェの持ち物は最低限の衣類や書物、雑貨しか持ち込まない為に閑散としていた。 家具も新品を用意し、生活に困らない程度に部屋を作ったのだが、リシェが持ち寄った私物はとにかく少なくてロシュが驚いた位。 可愛らしい見た目からは想像も出来ない程、物への執着が無い。 欲しいものがあれば何でも言って下さいと告げれば、剣の手入れをする為に立派な研ぎ石が欲しいと言う。それ以外は要らない、と。 自分も剣士として働いているから、自分が欲しかったら自分で賄える、と少し生意気な事を言っていた。 リシェは十六歳という年の割にはかなり変わっているタイプなのだろう。 故郷に戻りたいかと問われれば、戻りたくないと即答していた。 万が一護衛の役目を降ろされたならば、またアストレーゼンの一般の剣士として遠巻きながらもロシュを守りたいとまで言う始末。 とにかく彼は、故郷に帰りたくないようだった。 ベッドの傍に座り、ロシュはリシェの寝顔を眺める。ぬいぐるみを抱き締めながらぐっすり眠る彼の顔は、完全に無防備な子供だ。 稀にもぞもぞと動き寝返りを打つ様子がまた可愛らしくて、軽く悪戯をしたくなってしまうがぐっと我慢する。 少しだけ開いていた窓から、澄んだ空気が入り込んできた。 ロシュは部屋の中を見回し、足りなさそうな物は無いか確認する。あまりにもあっさりした室内の為、壁掛けの絵でも飾ろうかと考えていると、ベッドから再びもぞもぞと衣擦れの音がした。 「ん……」 ぬいぐるみを抱き締めながら、ようやくリシェは瞼をゆっくり開く。目を開けると、白く揺れる何かが見えた。 同時にふんわりと漂う爽やかな香り。 脳内にインプットされた記憶が蘇り、リシェははっと体を起こす。 「わ、わあっ!」 突然起き上がったリシェに、ついロシュはかくりと体のバランスを崩しぺしゃりと尻餅をつく。 身を起こした反動で、リシェと添い寝していたぬいぐるみが床に落ちてしまった。 「おはよう…ございます、リシェ」 「あれ…ロシュ様?どうして」 「早起きしちゃったので…あなたの寝顔を見たくて」 我ながら変な発言だとロシュは思った。 リシェは落下したぬいぐるみに手を伸ばし元の位置に直す。 「ごめんなさい、起こしてしまいましたね」 「いえ、起きなきゃいけないし…」 寝乱れた髪をかきあげリシェはベッドから降りると、ぺたりと座り込む主人に向き合う形で自分も正座した。 ロシュはまだ寝ぼけ眼のリシェのほおに触れ、軽くくすぐってやると、顔を傾けながら小さく声を上げた。 「子猫みたいですね、リシェ」 「ロシュ様の手、温かい」 ごろごろとリシェはロシュの手の温もりを楽しむ。 しなやかで、大人の大きな手。ロシュの手は優しく、理想的な大人の手だった。 自分の親から見放されたリシェにとって、今ではロシュが一番安心出来る大人なのだ。 「寒くないですか?毛布被って」 「大丈夫です。着替えなきゃ…」 寝過ぎれば体に変調が起こる。 リシェはロシュの手を取り、その感触を確かめながら彼に向けて微笑んだ。 大人びた微笑みに、ロシュはついドキッとする。 稀にリシェはぞくりとするような表情を見せてくる時があるが、年齢の割にはやけに子供離れした危うい雰囲気を醸し出す。まだ幼い顔立ちなのにも関わらず、だ。 あまりの不釣り合いさに、一瞬圧倒されそうになった。 彼の親はさぞかし美しい顔立ちだったのだろう。 …それ程までに、リシェは他人を魅了してしまう容貌を持っていた。 理性を制御出来ぬ者なら、無理矢理彼を手に入れようと躍起になるかもしれない。 「私も、あなたに魅了されているのかもしれませんね」 ほうっと溜息混じりにロシュは呟いた。 「?」 「いや、独り言です。あなたが私の側に居てくれるなんて、本当に信じられなくて…」 ロシュから放たれた言葉を受けて、リシェの瞳は少し潤んで、喜びに輝いた。ああ、と感嘆の吐息をつく。 「ロシュ様、そのお言葉…嬉しく思います」 彼の手を両手で包み込むリシェは、顔を紅潮させて手の甲に軽く口付けする。 「俺の命はあなたのもの。ロシュ様の為なら死んでも構いません。どうかずっとお側に置かせて下さい」 「リシェ」 毎度小さな騎士の口から出て来る自己犠牲の発言を受けるロシュは、いじらしい彼をきつく抱き締めてしまいたい衝動に駆られていた。 守って貰わなくても良かった。 ロシュはリシェにずっと側に居て欲しいのだ。可能なら、塔から出したくない。誰にも目を付けられないように隔離して、ひたすら彼を愛でていたい。 そして彼の奥の奥まで、自分の色に染めてやりたかった。 「ありがとうございます。嬉しいです…本当に、嬉しい。でも私は、あなたに私の為に無茶をして欲しくはありませんよ」 あくまでもロシュは冷静に、紳士的な対応をこなす。 でないと、欲望に任せてリシェをめちゃくちゃに抱きそうになってしまう。自分の中にある猛獣を、ひたすら押さえなければリシェを壊してしまいかねない。 完全に優男の風貌をするロシュだが、内面はとにかく欲望だらけだと自覚していた。 「さあリシェ。着替えてしまいなさい。体が冷えてしまいますよ」 すりすりとロシュの手の甲にほおを擦り付け、切なそうな表情を見せるリシェは、名残惜しそうに「はい」と返事をした。 接すれば接する程、ロシュが恋しくなってしまう。 しっかり気を保っておかないと…と、恋い慕う主人に向けて微笑んだ後、リシェはすっと立ち上がった。 クローゼットを開く彼の後ろ姿を見守るロシュは、「このお部屋、少し寂しい気がしませんか?」と問う。 やや筋肉質の上半身を晒していたリシェは、えっ?とロシュの方へ顔を向ける。 「いや…ほら、あまりにも物が少なくて。色々取り払ったものですから…」 「俺、別に気にしないですよ?」 シャツを被り、襟首から顔をすぽんと出す。 「専用のお部屋を頂けるだけでも凄くありがたいです。これ以上望んだらバチが当たります」 「何か欲しいなあ…」 リシェに与えた部屋はロシュの部屋よりは小さいが、生活する分には十分な広さがある。浴室はロシュの部屋の中に備え付けてあるので必要無いが、他にリシェが生活する上で必要な設備は無いだろうかと考えていた。 ううんと唸りながら頭を悩ませる。 「あの、本当に…大丈夫ですから」 「ぬいぐるみでも増やしましょうかねえ…あっ!そうだ、ソファと同じ大きさのテーブルをご用意しましょうか!勉強用の机と椅子があるから、疲れたら横になれるように」 「あ、あの…疲れたらベッドがありますし、大丈夫ですよ…ソファを勧める相手も居ないし」 「へ?お友達とか、剣士仲間でいらっしゃるでしょう?ほら、スティレンとか」 同じ年頃の宮廷剣士が少数だろうが、居る事には居るだろうと思っていた。 しかしリシェの反応は、ロシュが予想するそれとは違っていた。 「えっと…スティレンって友達なんでしょうか?」 首を傾げて疑問符を投げつけてくる彼に、ロシュはつい「えっ」と声を上げる。 「従兄弟なんでしょう?」 「従兄弟…ですけど」 「似たような近い関係じゃないですか」 ロシュが指摘すると、リシェは困った顔を見せた。 前とは違って今はそれ程わだかまりも無いだろうに、何故渋った表情をするのだろうか。 「仲良くなった訳ではないんですか?」 宮廷剣士の服を着ながら、リシェは眉を寄せる。 どういう訳なのか、近い関係だというのを肯定しそうにない様子を見せていた。 「さあ…」 「さあ…って。喧嘩をしてる訳でも無いのでしょう」 「はい」 「普通に会話が出来るなら別にいいのでは?」 やはり渋る。むしろ納得いかないような顔だ。 「友達じゃないですし…」 「友達じゃなくても従兄弟ならいいのでは?」 「そこまで仲良くない…」 「ええ…?」 ロシュはあまりの冷たい様子に愕然とした。 お互いがお互いの扱いを雑にするあまり、このような発言になっていた。 スティレンはリシェに対して上から目線で物を言う癖が付いていて、リシェは逆にスティレンに対し興味が無く、何かをされたとしても無感動。そのせいで、彼にだけはリアクションが薄い。 友達じゃないという発言が出てきたのも、リシェは従兄弟である彼には全く興味が無い為だろう。 「あれだけ言い合ってれば、外野側から見れば仲が良いと思いますけどねえ…」 「あいつが一方的にちょっかいを出してくるだけです」 「あなたに構って欲しいのでは無いでしょうか」 「ええ…嫌です…」 「嫌なんですか…」 「嫌です…」 声のトーンすら低い。 かなり不愉快なのか、めちゃくちゃ嫌そうな顔でリシェはロシュから目線を逸らしていた。 いつもリシェは、ロシュの部屋で朝食を摂る。 一日のスタートに朝ご飯は必ず一緒に食べる事を義務付けており、この日もお互い顔を付き合わせながら朝ご飯を食べていた。 司聖の塔のすぐ下にある大聖堂専用の厨房から運ばれてきたメニューは、作りたての熱々のパンとベーコンが入ったオニオンスープ。更に甘めに味付けされたスクランブルエッグとポテトサラダ。 リシェの為に常温の牛乳が付いた、ある意味王道的な内容だった。 身長をとにかく伸ばしたい彼は、毎日牛乳を口にする。 だが果たして効き目があるのかは分からない。 冷たい牛乳がいいですと注文を付けたが、ロシュは起きたてに冷たすぎる飲み物はあまりよろしくないと常に常温を指示していた。 「昨日はすぐ帰らされたので今日はしっかりとお勤めしてきます」 「そうですかぁ。疲れは取れましたか?」 「はい。沢山眠れたし…」 「良かった、体は万全にしておかないとね」 優しいロシュの言葉を聞く度、リシェは安心する。 このまま彼と共に過ごせたら他は何も望まない。 熱いスープをゆっくり口にして、甘みのあるオニオンの味を堪能している最中、突然部屋の大きな扉がノックされた。 ロシュはその音に軽く眉を寄せると、若干不満げに表情を曇らせ「はい」と返事をしながらソファから立ち上がる。いつも優しい主人のその様子から、リシェは不穏な雰囲気を感じた。 重厚感のある扉がゆっくりと開かれた。 「あ」 早くの来訪者の姿を見たリシェは、反射的にソファから立ち上がる。ロシュと同じく真っ白な法衣の背の高い青年司祭に向けて、ゆっくりと頭を下げた。 相手はリシェを見るなり目を細めながら優しく微笑みを返す。 「やあ、おはようロシュ。相変わらず早起きだね」 「おはようございます。何かご用があったんですか、レナンシェ?朝ご飯の最中だったんですがねぇ」 少しだけ棘のあるニュアンスを込めてレナンシェに言うと、ロシュは彼にくっついて入ってきた少年に目を向けた。 少年はロシュと目が合うなり、恐縮しながらぺこりと頭を深く下げる。 「この方は、あなたのお付きの見習いさんですか?」 ロシュの部屋にまで連れてくる程、気に入っているのが分かる。 普通なら、見習いの司祭達は別の場所に待機させておくものだ。それをアストレーゼンの司祭の上に立つロシュに会わせるように同行させるとは、かなり寵愛されている風に伺えた。 「ああ、この子はうちの教会内でもずば抜けた知識や魔力を持っていてね。出来る限り才能と見聞を広げてやりたいんだよ。昔の君みたいに将来有望な子だ。さあシエル、ご挨拶なさい」 「は、初めましてロシュ様!シエル=シャスール=エルゼリオと申します!」 初々しい様子でシエルは畏まり、叫ぶように挨拶をする。ロシュはふんわりと優しい笑顔でこんにちは、と返すと、彼の名前にふと疑問を覚える。 レナンシェと同じ苗字を名乗っている事に気付いた。 「エルゼリオ…」 「ふふ、私の養子だよ。彼は孤児でね」 ふんわりとした金髪を揺らしながら、シエルは照れ臭そうにはにかんでいる。 「そうですか…まさかあなたが養子をね」 その間、リシェは食器を片付けながら来客者用のお茶の準備に取り掛かる。 ロシュはそんな彼の後ろ姿に目を向けると、「リシェ」と声をかけた。くるりと振り返り素直に返事をする。 「はい、ロシュ様」 「少し彼と一緒にお部屋でお話をしてあげて下さい。緊張しているようだから、リラックスさせてあげて」 「はい。えっと…お茶のご用意が終わったらでいいですか?」 もう少しで湯が熱くなる。 来客に失礼の無いようなカップに、良い茶葉を選んでいる最中だった。 「ええ、リシェ。お客様に美味しいお茶をご用意して下さい」 「はい」 カップを温める事から始め、選びに選び抜いた茶葉の缶を開ける。朝なので目が覚めやすい物がいいだろうと決め、ゆっくりとティーポットに茶葉を入れた。 ロシュの為に美味しいお茶の入れ方を勉強中のリシェは、少し慣れた手つきでカップに紅茶を注いでいく。 広い室内に紅茶の香りが充満すると、レナンシェは「へえ…」と感心した。 「君の騎士様はとても甲斐甲斐しいね」 「リシェはとても気遣いしてくれるんです。あなたのシエル君もそうでしょう?とても頭の回転が早そうだ」 レナンシェの横に居たシエルは、ぴくんと緊張の糸を張り巡らせていた。レナンシェはふっと口角を上げると、シエルの頭を優しく撫でる。 「この子は大変真面目でね。真面目さ故に妙に堅物になりがちなんだよ」 先程まで朝食で使っていたテーブルの上に来客用のティーセットを並べ、リシェはご用意出来ましたとロシュ達を促す。 「では俺達は席を外します」 「ありがとうございます。シエル君、リシェとお話をしていて下さい。リシェなら君と同じ歳くらいだから、安心して寛いで下さいね」 リシェは自分達のカップをトレーに上げながら、シエルに声をかけた。 「部屋はすぐ近くだから」 「あ…うん!」 同じ年齢位のようだが、やはりリシェと並ぶとシエルの方が身長も高い。体型はどちらも小柄だが、リシェは身長の分少し損をしている感じもする。 彼はゆっくり成長するタイプなのかもしれない。 リシェはシエルを促した後、司祭達に頭を下げて一旦ロシュの部屋から退いた。 ふああと呑気なあくびをする召喚獣を見て、主人であるオーギュは軽く吹き出していた。 『何かおかしいか?』 「いえ、良く眠っていたなと思って」 『夢を見ていたようだ』 狭い部屋の中をゆっくりと四つ足で歩きながらファブロスはオーギュに言った。ただでさえ物が多く、書物があちこちで積み上がっている状態の中を大きめの獣が動き回るには無理がある。 なるべく物に当たらないように身を縮めながら動いているが、うっかりぶつかると容赦なく書物の雪崩が襲いかかってきた。 バサバサバサッ、と崩れていく本。 「人の姿になりなさい」 『オーギュ、整頓したらどうだ?』 頭に書物をもろに受け、帽子のように開いた本を被りながらファブロスは言う。 「してますよ。ただ、読みたい本が増えてしまって整頓するのが間に合わないだけです」 『整頓出来ないのを言い訳にしていないか?』 「そんな事ありませんよ。なかなか出来ないだけです」 バサッと頭上の本が落ちた。 『このままの状態が楽なんだがなあ』 「あなたにはこの部屋は狭過ぎるでしょう」 例え部屋を整頓しても獣の姿では結局狭いままだ。 うぬぬと呻きながら、ファブロスは別の姿へ変化する。 「まだかかるようですね」 オーギュは自分の手の甲の紋様に視線を落とした。以前よりは色味が入ってきた気がするが、完全では無い。 一旦意識の共有を切断すると、しばらくは元に戻らないとは聞いていたが意外に長期になりそうですねと呟いた。 ファブロスは『んん?』と主人に目を向けると、意味深な笑みを浮かべた。 『そんなにまで私と一緒に居たいか、オーギュ』 「ヴェスカみたいな事を言わないで下さいよ。私の中に入れないと行動しにくいかもしれないと思っているだけです。あなたも私の中に入っている方がいいでしょうし…」 言いかけたその時、ふっとあの時の事を思い出した。 魔法の枷を掛けられ、ファブロスに無理矢理犯された時の事を。何度も突き上げられ、言い様の無い痛みと快楽に震えた事を思い出し、かあっと全身が熱くなった。 ファブロスは『そうか、そんなに一緒に居たいか』とからかうような口調で頷きオーギュに言う。 「いっ…いや、変な意味ではありませんよ!移動するのに大変だろうという意味です!」 『?』 慌てながら叫ぶオーギュを見て、ファブロスはきょとんとしていた。 「あっ…」 それを見て、別に彼はあの意味では無く言ったのだと理解する。何故か恥ずかしくなり、オーギュは自らの情けなさに赤面してしまった。 涼しげな目をしたままのファブロスは、弱る主人に向けてどうした?と問う。 『熱でも出たか?』 この時ばかりは、思考を読まれなくて良かったと本気で思った。 「い、いいえ!何でも無いです!」 『ならいいが、あまり無理をするんじゃないぞ』 自分があんなにいやらしく嬌声を上げていた事を思い出すと、どこかに穴を掘って入りたくなる。突き上げられ続けると痛みの中に快感が加わってくるとは思いもしなかった。終われば終わったですこぶる痛かったものの、いつの間にかファブロスが回復させてくれたのが幸いだった。 出来ればあのような痛みはもう経験したくはない。 「…ありがとうございます」 『礼には及ばん。お前には万全の体調で居て貰わないと私も困るからな』 …だからあの時もすぐ痛みを癒してくれたのだろうか。 オーギュは複雑な表情のまま、自分の書斎机の整頓を続ける。積み重なる書物の中に紛れ、下敷きになっていた一枚の裏返っている写真がオーギュの目に出現する。 やや茶色く変色した古臭い写真を拾い上げ、表側を何気無く覗くと、その懐かしさ故についくすっと笑った。 ファブロスは崩した本を再び積み重ねながら、不思議そうな顔で『どうした?』と返す。 「懐かしい写真が出てきましてね」 『?』 「まだ若過ぎる時のロシュ様と私が写っています」 ほうと興味を持ったファブロスは、書斎机へ足を運んでそれを覗き見る。数人の少年少女達の集合写真で、大聖堂の手前の階段で撮ったのか、背後に上手く大聖堂が入り込んでいる。 彼らが身に纏う法衣は灰色かったり、それとは別に司祭を目指す者は白い法衣と別れている。 『随分距離感があるな、お前とロシュは』 「お分かりですか?」 端と端という対象的な位置に立っている自分達を眺め、オーギュは苦笑いする。ロシュはわざわざ真ん中に立たずとも、そこに居るだけでも持ち前の華やかさを与えさせてくる程の美少年だった。 他の見習い達も、彼の甘いマスクとしなやかな体つきに見惚れてしまう者も多かった。 与えられた才能と知識の広さも一目置かれていた。天は二物を与えずとも言うが、贔屓をしていると思える位の恵まれっぷり。 こんな人間が他に居るのかと羨ましがられる一方、彼の昔の性格はとにかく我儘で傲慢だった。 普通ならそんな性格なら人が離れていくはずだが、彼の美貌故に人気はあった。 彼がそこに居るだけで、周囲が明るくなる。 まだ幼い少年達には、感覚的にそう感じたのだろう。実際、ロシュは人々を惹きつける何かがあった。だから司聖の道を勧められたのかもしれない。 『お前はあまり変わらないな』 「そうですか?」 『一緒に勉強をしていたのだな』 「ええ。まあ、途中まででしたけど…学ぶジャンルも違いましたしね」 ロシュの近くに居る白い法衣姿の青年に視線が映る。 まだ二十代の頃のレナンシェがそこに居た。彼はロシュの肩に手を置き、優しい笑みを浮かべている。 「………」 昔のロシュなら、相手が誰だろうと触れてきた相手に触らないでよとすぐに振り払ったはず。何の反抗もなく写真に映っているという事は、この時は既に二人はそんな関係になっていたという事だろうか。 昔は知らなかった事が、今になって知り始めると、人間というものはとにかく不可思議な生き物だと感じずにはいられなかった。 若干冷め始めてきた紅茶を口にした後、来訪者レナンシェは、向かい合って座っているロシュに目を向ける。 ロシュは一人掛けのソファに腰を据え、なるべく相手を見ないようにしたまま、「何かこちらにご用があったんでしょう」と言った。 「見習いの子達に大聖堂を見せたかったんだよ。何でも経験させたくてね」 「わざわざこちらにまで出向かなくてもいいのに」 ややトゲのある言葉だったがレナンシェは慣れているようで軽く一笑すると「礼儀は必要だろう?」と優しく微笑んだ。 昔からお互いを知るからこそ必要だとレナンシェは空のカップを置いた。カシャンと陶器がぶつかり合う音色が耳に届く。 「君の騎士様の淹れてくれたお茶はとても美味だ。君の為に淹れ方まで勉強しているんだろうね」 「後でリシェにお伝えしますよ」 「君の趣味はああいう可愛い子なのか。剣士の割には少し心細いが、相当気が強い目をしていたね」 「………」 あなたには関係ないでしょうと言いたい所だが、レナンシェの性質上、自分がどう返事をしようがあれこれ突っ込んでくるので、何も言いたく無かった。 リシェに狙いを定められても困るのだ。 「彼に対して余計な詮索をして欲しくありません」 「へえ…かなりお気に入りかな?」 「私はあの子の保護者のようなものですから」 カップをテーブル上にあるソーサーに置き、ロシュははっきりとレナンシェに告げた。 とにかく彼にはリシェに関わって欲しくない。 「あの子にちょっかいを出したら、いくらあなたでも許しませんよ。あなたは誰にでも見境無く言い寄りますから」 「はは、まるで前科者のような扱いだ」 無理も無いかも知れない、と心のどこかでレナンシェは思った。 …まだ幼かった彼にしてきた事を思えば。 その結果が、今のロシュの自分への態度で分かる。 「でも君も満更でも無かったように思えるけどねぇ。若過ぎたせいかな、夢中になって欲しがっていたじゃないか。それはどう説明する?」 「………」 一瞬ロシュは嫌悪感をむき出し、端正な顔を歪めた。 「あなたは言葉巧みに誘導して私を片時も離さなかった。あの変な薬は、魔力を上げるだけではなく媚薬も混入していたんでしょう?欲求に逆らえない年頃の人間を自分に引き込むには簡単なやり方ですからね」 鬱憤を吐き出すロシュに対し、酷く冷静なレナンシェは目を細めて「へぇ」と呟く。 「何故そう思ったんだい?」 「あの薬を飲むと欲求が高まるのは毎度でしたし、あなたもそれを見越して私を好きに扱ってきた。次の日は半日体調が悪かった。それに魔力も思うように出せない。あれを飲めば高められると言ってたけれど、それは僅かな期間だけだ。私は元々高魔力保持者と言われていたから、少し位の増減なら何となく分かります」 「………」 「結局、あなたは私をどうしたかったんです」 回りくどいのが面倒で、ロシュはいきなり話題の中核を突いた。あの薬を使って支配したかったのか、単なる欲望の捌け口が欲しかったのか、それとも他にあるのか。 ただ、当時自分はまだ将来も見据えていない見習いの立場だった。 魔導師の道から司祭に変更したのはレナンシェが出現してからだったが、大それた立場になりたいとも思っていなかった頃だ。流石に司聖になる事を見越して弱味を握りたいという思惑は無いと信じたい。 「君が欲しかったと答えたらいいのかい?」 「それが理由なんですか?」 「ふふ。…どうだかね」 はぐらかすばかりで、まるで話にならない。 ロシュは深い溜息を吐いた。 昔から彼は奥底にある本音を話さないタイプらしく、今でもそれは続いているようだった。 恐らく別の仲間内でも、正直な考えや気持ちを口にする事が無かったのかもしれない。まだ自分が少年だった頃にも、彼は素直な感情を見せる事は無かった気がする。 言葉の端々に本音を込めているのかもしれないが、何が本心なのかロシュには読み取れなかった。 野心があるように見せかけながらも、事の成り行きを遠目で眺める性質。 レナンシェ=アイシェス=エルゼリオは昔からそんな男だった。 「あなたはとにかく心の内を見せませんね」 「そうかな?私は君には正直に話をしているよ。君が受け入れてくれないだけだろう、ロシュ」 「私はもう子供ではありません。口先の戯言には引っかかりませんよ」 困ったなあとレナンシェは苦笑いする。 「素直に話しているんだけどねえ…私は君には嘘を吐かないよ。君が私の発言を嘘だと捉えている限り、何を言っても信じてくれないだろうけどね」 ロシュは知らず知らずのうちに両手をギリっと握り締めていた。底から湧き上がる感情を抑えるように、彼は前方で余裕を見せながら腰掛けるレナンシェを見る。 「そうさせたのは誰ですか。あの家、まだ残ってますよ。散歩に行こうと私を誘って連れ込んで、上手い事言いながら散々弄びましたよね?忘れたとは言わせない」 「忘れやしないさ。君がとにかく可愛かった時期だ。君の魅力と、君が持つ能力に酔いしれた時だ。私は君の才能を伸ばしてあげたかったんだ。それにはあの薬が必要だったんだよ。…まあ、あまり役には立たなかったみたいだけどね。私には君も楽しんでいたようにも見えたけどね」 「なるほど。…私は実験台だったんですか、レナンシェ。実験台と性欲の発散出来る都合の良い相手という訳ですか。馬鹿にされたものだ。あなたに抱かれる度に疑問だったんですよ。あの薬は本当にあなたの言う通りの物なのかってね。あなたが言っていた通り、魔力を増強する効果があるのか疑問だった」 今目の前に居る、昔から持て囃されてきた見習い司祭の美少年は、大人に成長し中性的な美しさを保っていた。 幼い時は生意気ながらも可愛らしく慕う様子も見受けられたが、物事を冷静に考える力が備わってくると懐疑的になってしまうのだろう。 レナンシェは落ち着いた表情のまま彼の話に耳を傾ける。 「…あれは増強ではなくて、逆に制御するものではないんですか?」 ロシュの質問に、レナンシェは馬鹿馬鹿しいと目を伏せた。法衣からすらりと伸びた足を組み直しながら「何の為にそんな事をする必要が?」と問う。 「それはあなたが良く分かるんじゃないですか?先程言ったように、あれを口にすると魔法が出にくくなりました。飲む事によって何らかの負荷が体に発生していたんです。回復後は確かに強い魔力の感触がありましたが、微々たるもので長続きする訳でも無い。むしろ私がこれを服用する事によって、あなたに何かメリットがあるんじゃないですか?」 「…私が君に危害を与えて得する事なんて全く無いんだけどねぇ。あれだけ私を慕ってくれていたのに、随分と変わったものだ」 彼は残念そうに言って腰を上げた。 「ここは風通しの良い場所だね。少しベランダに出て気分を変えるとしよう」 明確な返事を貰えないのは元から分かっていたが、言いたい事は言った。ロシュは冷静にならないととやや高ぶっていた気持ちを押さえながらソファから立ち上がる。 先に窓辺に立つレナンシェの後を追う形で、ロシュは風がひっきりなしに通り抜けていくベランダへ出た。 今日は雲の流れが早い。 「景色がいいね。遠くにアストレーゼンの街も見える。毎日この絶景を見れるリシェ君は幸せ者だな」 ふわりとレースのカーテンが舞い上がり、ロシュはそれを軽く押さえつけながらふと城下街の方向に目を向けた。 レナンシェが居を構えるフレンリッカは更に遠い。 「…本来ならあなたがここに住むべきでは無いのですか、レナンシェ。行動は別として年齢を考えれば、あなたが一番最適だったのに」 彼が何故アストレーゼンの司祭にも関わらず、この場に留まるのを拒否し別の街に行ったのか、当時のロシュには理解出来なかった。 かなりの能力を持っていたのは、ロシュでも良く分かっていたのだ。 留まっていれば、それなりに安定した立場だった筈。 レナンシェは遠くの景色から身近なロシュへ視線を動かすと、昔良く見た微笑みを見せてきた。 それは年を重ねても変化の無い顔。 「向いてないのが分かるからね」 「………」 「それに、私は物事を深く考え続ける忍耐力が無い。そして君にはサポートしてくれる優秀なオーギュも居る。昔はあれだけ反発し合っていた相手が、パズルのピースのように上手く合致し合えるなんて、第三者から見れば面白いものだ」 「私に司祭を勧めたのはそれを見越しての事ですか?」 また疑い深い質問をしてしまうが、不意に頭に浮かび上がった事は聞いておかないと気が済まない。 レナンシェはふっと吹き出し、「さあね」とだけ返すと再び城下街の方へと目を向けていた。 同じ位の年齢で、見てくれが華やかなタイプはスティレンで十分見慣れているが、同じような雰囲気を持つシエルは従兄弟とは異なる気がした。 リシェは眉をハの字の状態のままで、一体どんな会話をしたらいいのかと悩む。 元々話上手なタイプでも無く、同年代の少年らと違い集団で固まるという意識がほとんど無いリシェには初対面の相手と一対一で語り合うというのは難易度が高いのだ。 シエルと系統が似通っているスティレンの場合、基本的に彼が一方的に喋って勝手に騒ぎ立て、自分中心に行動するからそれに合わせて動けばいい。 彼は明らかにそうではないから困ってしまう。 雰囲気だけなら、ロシュの少年時代はこのような感じに近いのかもしれない。 「えっと…君の名前、リシェ君だっけ?」 しばらく会話が無かったが、話を切り出したのは部屋をひと通り見回し終えたシエルの方だった。 リシェはこくりと頷いた。 人懐っこい微笑みをしながら、シエルは話を続ける。 「僕、アストレーゼン初めてなんだ。ここはやっぱり都会だからびっくりしたよ。君も地元の人なの?」 普通の会話で、リシェは何故か安心した。 「いや、俺はシャンクレイスから来たんだ」 「え、そうだったんだ?てっきりここの人かと思った」 軽く頭を傾けながら、彼はリシェを見る。 「どうしてアストレーゼンに?」 素直な疑問に、リシェは一旦声を詰まらせた。それを見逃さないシエルはつい慌てて「あっ、ごめんね」と取り繕う。 何か国に戻れない理由があるのかもしれない、と。 「言いにくいなら言わなくていいから…」 シエルはリシェに気を使ったのか、申し訳無さそうに言った。しかし、リシェは表情を変える事無く彼に言葉を返す。 「いや、気にしなくていい。向こうには俺の居場所が無かっただけだからな」 シエルはリシェの一見愛くるしい姿や顔に似つかわしくない発言に一緒目を丸くすると、間を置いてくすりと笑った。 リシェはきょとんとしながら「何か?」と問う。 くすくすと笑うシエルは「何だか君の顔と言葉使いが妙に不釣り合いだと思って」と一言だけ口にする。 「?」 「そんなに可愛い顔なのに」 「…普通に話しているだけなのにな」 ふっと不機嫌そうにシエルから目を逸らす。そんなリシェの様子を見て、彼は失礼な事を言ってしまったかなと焦った。 「気を悪くしたなら謝るよ。君は根っからの剣士様なんだね。まだ僕らと変わらないのによく剣士になろうって決意したね」 褒められる経験が浅いリシェは、目を逸らしたままの状態で少し萎縮しながらそんな大袈裟なものじゃないと呟く。 「俺は一目見た時からロシュ様にお仕えしたいと思っただけだから」 「へえ…そうなんだ?なら僕と似たようなものだね!僕は養子だけど、レナンシェ様になら何でもしたいって思ってるんだ」 仲間意識を感じたのだろうか。 シエルは華やかな笑みを保ちながら、リシェの手を取る。同時に、リシェは馴れ馴れしい様子の相手に押されてしまった。 その控えめそうな様相とは違い、なかなかの行動派のようだ。 「レナンシェ様は僕に生きる意味を授けて下さったからね。出来る事なら何でもして差し上げたい。あの方が居てからこそ僕は生きられるんだから」 「………」 シエルのどこか恍惚とした物言いにリシェはしばらく無言だったが、やがて沸々とした感情に襲われる。 分かる。十分過ぎる位に気持ちが分かる。 「俺も同じ気持ちだ。分かるよ」 「!」 ふわあっと表情を明るく変え、シエルはふんわりとした柔らかな髪を揺らして「本当!?」と笑った。 「えっとね…僕の考えはさ、他の子にはあまり理解して貰えなくて。僕が孤児だからかもしれないけど…他の子は勉強の為に教会に入った子ばかりだから!嬉しい、ここに来て似たような考えの子が居たなんて!」 かなり嬉しいのか、シエルは次々と言葉を発してくる。 どんな会話をしたらいいのか先程まで悩んでいたリシェだったが、話が進みそうで少し安心した。 「それじゃあ、君も孤児だったのかな?」 「いや、居るには居るけど…俺は私生児だから、あまり立場が無いんだ。俺が居なくなれば厄介事も無くなるだろうし、それにあのまま埋もれるのは嫌だった」 一見人を惹きつける容貌から出てきた重い発言に、シエルは驚愕した。そしてリシェの首筋にそっと手を当て優しく指先で撫でる。 くすぐったさにリシェは身を軽く捻りながら、不思議そうな顔で相手を見上げた。 「そうだったんだね。辛い立ち位置なんだ…でも立派だよ、リシェ。君はきっと、ロシュ様に出会う為に生まれてきたんだよ」 相手を理解し、それを踏まえて救いの言葉を与えてくるのは流石だと思う。現に、リシェはその言葉を受けて心の中で熱いものを感じていく。 彼が言うようにロシュと出会う為に生まれてきたのなら、それまでの経過が辛くとも我慢出来る。確かにロシュと出会えた事で、全てが救われたのだから。 照れ臭そうに身じろぎし、リシェは深みの赤色の瞳を揺らしてこくんと頷いた。 フレンリッカからの来訪者が滞在するのは三日間の予定だったが、三日目の夜からアストレーゼン全域が激しい雨に見舞われ滞在が伸びそうだとロシュの元に知らせが届く。 激しい雨で地盤が緩み道が崩れ、その為に通行路が倒木やぬかるみで妨げられる箇所も出てきたらしく、城下街に駐在する警備隊や大聖堂からも剣士達が派遣され、各所に散らばって修復を行なっていた。 雲の流れを把握し、降り注ぐ雨がようやく落ち着いてきた所で、悪路の修繕を繰り返し行なっていたヴェスカ率いる宮廷剣士第二班は、疲れを見せながら水を吸いにくい土砂を運んでは埋める作業に徹していた。 「流石に雲は抜けるだろ」 「だな。…てか、もう疲れたよ。何回直しゃいいんだ」 スコップで土を慣らしながらぼやく。 雨を弾く外套を身に纏う剣士達は、長い時間食事も無く修繕作業に駆り出されている為に疲労困憊していた。 「…晴れたら悪い場所もすぐ分かるようになるだろ。分かる場所を固めたら一旦戻ろう」 ヴェスカはそう言い、土をきつく固めた。 少し離れた場所で土を入れているリシェをちらりと見たラスは、スコップを手にしながら彼の側に近付いて固める作業を手伝う。 「先輩」 「ん?」 「もう少しで戻れるって」 「うん」 ザクザクと音を鳴らし、リシェはひたすら土を入れては固めていた。その小さな体で黙々と泥臭い作業をする様子は、側から見ても不釣り合いに感じる。 「先輩、ロシュ様の護衛と掛け持ちなんだから今日みたいな日は避けても良かったのに。わざわざ兵舎に来て皆と作業しなくても」 雨が固めていく土に染み込んでいく様子を見ながらラスはリシェに言った。緩みを無くすようにスコップで叩き、リシェは「やる事無いから」と返す。 「他の奴がやってるのに、俺だけやらないのは嫌だ。黙ってると落ち着かないしな。それに、どっちも好きでやってるから中途半端なのは嫌だ」 外套からぽたぽたと地に落ちていく雨水を振り払うと、リシェは重みのあるスコップを動かした。 作業開始した時はかなりの大降りの雨だったが、ようやく小雨に切り替わってきたようだ。 雨も前よりマシになってきた所で、ヴェスカは周囲を見回し確認した後、仲間達に向けて「一旦戻るぞ」と合図した。 土が入った袋を乗せた台車に大量のスコップを乗せて片付けを始める。剣士達は口々に疲れた、腹減ったと軽めの愚痴を言い合いながら早々に切り上げる準備を済ませると、重くなった台車を動かす。 「リシェ、台車の轍に土を撒いておけ」 「分かった」 重みで車輪の跡が残る為、ヴェスカはリシェに土を入れるのを頼むと、彼は荷台に積んでいた土の袋を一つ背負った。 他の剣士が台車を押すその後ろで、リシェは砂を平らに埋めていく。 ラスは「俺も手伝います」とリシェが撒いた土を軽くスコップで慣らし、仲間達の後を追った。 補強された道を確認し、湿気漂う中重い足を進める。 台車の轍が深く刻まれた場所を埋めていくリシェを、ラスはちらりと見た。 黙って作業を繰り返しているリシェは、力仕事で若干火照った顔のまま真面目に体を動かしていた。 掛け持ちなんてしなければ、余計に疲れを感じなくてもいいのにと内心思いながらスコップで土を固める。 そんなにまでロシュがいいのだろうか。 リシェの気持ちを完全に捕らえてしまったロシュに対しかなり嫉妬していたラスは、毎度不貞腐れた気分を隠しつつリシェに接していた。 責めればリシェに嫌われてしまうのが怖い。だから今まで通り普通に振舞っている。自分の気持ちを押さえてでも、リシェの側に居たかった。 「先輩」 作業するリシェの唇から絶え間無く荒い吐息が聞こえ、ラスはリシェに声をかける。 「?」 「もういいでしょ。追いかけましょう」 「…ああ」 流れ落ちてくる水滴を煩わしく払い、リシェは屈んでいた体を起こす。 そしてその体に背負っていた土の袋を、ラスは素早く奪うと自らの背に乗せた。驚いた顔のリシェに、「俺が持ちますから」と呟く。 「いいのに」 「…俺がそうしたいんです。たまにはいい格好させて下さいよ」 小さなアピールをするが、リシェには伝わらないだろう。彼はもうロシュに気持ちが向かっているのだから。 だが、無駄な行動なのは重々承知の上でラスはリシェにいい所を見せたかった。 自分はまだ彼を好きなのだ。 「戻ったら熱いスープが飲みたいですね」 「そうだな。クルトンが入ったコーンスープがいい」 地面を踏む度、軽くぬかるんで歩きにくさが増す。 城下街が近くに見えてくると、土の道は徐々に砂利道になり、やがてきちんとした舗装路になってきた。 台車を引っ張りながらようやく街中へ入ると、剣士達は緊張感から脱したかのように一息ついた。 「ああ、しんどかった…」 「泥まみれだわ重いわで普段の練習よりきついな」 雨に降られているアストレーゼン城下街は、やはり普段よりも人の姿は少ない。 兵舎に戻ろうと動き始めたその時、別ルートから入って来た豪奢な小型の馬車が目の前を横切ってきた。 見慣れない家紋が彫刻された焦茶塗りの箱馬車はこちらを確認していなかったのか、台車を押す剣士らのすぐ手前すれすれを走っていく。 「ううわ!」 危ない、とヴェスカは仲間を引っ張り停止させる。 「無いわ、危ねぇだろ!よく見ろよ!」 仲間の一人が箱馬車に向けて怒鳴ると、馬の速度と車輪の回転が緩やかになり停止する。 操作していた御者は深く被っていた外套のフードを軽く上げながらこちらを確認した。そしてようやく気付いたのか低姿勢で謝罪する。 「す、すみません!!」 同時に馬車のボックスの扉が少し開き、穏やかな顔の紳士が顔を出してきた。 雨がまだ降り続く中リシェはやや遠目で彼を確認すると、びくりと体を硬直させる。そして思わず顔を下に向けた。 ラスはそんな彼の様子に気付き、「先輩?」と問いかける。 「どうしたんですか?」 「いや、何でもない」 リシェはそのまま押し黙り、下を向いていた。 馬車の中に居た紳士はこちらを見下ろすと、申し訳無いと頭を下げる。五十代位の物腰が柔らかく、優しい目が特徴的だったが、ヴェスカは彼の顔を見てどこかで見たような気がすると感じていた。 「あまり慣れない道で、注意が行き届いていなかったようです。お怪我はありませんか?」 「こっちは大丈夫です。雨だから見えにくさもあるでしょうし…お気をつけて」 波風を立てては面倒だとヴェスカは無難に返事をすると、紳士はありがとうございますと頭を下げた。 紳士がふっと目を細くしたその時、ヴェスカははっと気付く。 馬車が動き出したと同時に彼はリシェに目をやる。 車輪の音が遠ざかり、人々の帰路を急ぐ足音が再び耳に入り始める中、リシェは一人動きを止めて佇んでいた。 「先輩、大丈夫ですか?」 ラスはずっと下を向いているリシェに話しかけていた。 「ああ、大丈夫だ」 戻ろう、と彼は剣士達が引っ張る台車を押し始める。 「………」 ヴェスカは不意に浮かんだ疑問を頭の中に留め、無言で動いているリシェを見ていた。 台車から荷物を降ろし、片付けを始める中で先程から疑問を感じていたヴェスカはリシェを呼びつけ、人気の無い場所を選び移動する。 雨はまだ静かな降り具合で、完全には止まない。 リシェは纏わりつく湿気にうんざりした顔をしつつ、自分だけ単独で呼ばれた事に不思議そうな様子でヴェスカを見上げる。 「何かあったのか?」 ヴェスカは逆にリシェを見下ろし、えっと…と言葉を頭の中で組み立てていた。 このような事は個人的には苦手だが、確認しなければならない内容だ。 「聞きたいんだけどよ」 「?」 「街の出入口で見かけた馬車居ただろ」 リシェは一瞬ぴくりと反応したが、ヴェスカは敢えて突っ込まないようにした。 「ああ」 「あの馬車のボックスに居た紳士の顔見たか?」 危険な運転を謝罪した際、リシェは外套のフードを深く被っていた。ふるふると首を振る。 「あの紳士、目を細めた瞬間がお前に似てたんだよ。何て言うかな、雰囲気っていうかさ。見た事ある気がして何だろうなって思ってたら、お前の顔が浮かんだ」 「………」 「お前の親父じゃないのか、リシェ」 直球の質問に、リシェは顔を強張らせ身を固くした。 彼の分かりやすい素直な反応に、ヴェスカは確信すると固まったままの彼に対し畳み掛けるように続ける。 「向こうに黙って出てきたんだろ?親父さんは知ってるのか?」 普段はっきりした物言いをするリシェには珍しく、即座に返事をしない様子を見せてくる。 「ここに滞在すれば、そのうちお前がこの国に居るのを聞かされる可能性もある。ただでさえお前みたいに隣の国から来た剣士なんて珍しいんだ。しかもアストレーゼンの司聖様を守る役目を持っている白騎士なら、余計他人から知らされる確率が高い」 「………」 リシェはヴェスカから目を逸らす。 「お前の親父さんがどんな性格かは知らねえけど、下手したら大事になる。親からすれば、ロシュ様はお前をたぶらかして側に置いていると判断した上で誘拐犯にされる可能性が出てくるんだ。お前からロシュ様の側に居たいと望んでも、他はそう見てくれないかもしれない。リシェ、ソリが合わなくても説明した方がいいんじゃないか?」 「父様はほとんど家には帰らない。だから俺が家から出た事は知らないと思う」 「やっぱりお前の親父か。…ろくに見てないのに良く分かったな」 ようやく重く口を開いたリシェに、ヴェスカは内心ホッとした。間違っていたらどうするかと考えていた矢先だったのだ。 リシェはヴェスカから目を逸らしたまま「すぐに分かったよ」と呟く。 「馬車に家紋があったから」 馬車に刻まれていた模様を、見覚え無い筈は無い。 居心地の悪い屋敷の中で、嫌という程見てきたのだ。 「ああ…なるほどな」 「例え俺の存在を向こうが知ったとしても、父様はそこまで俺に興味は無いと思う。俺をあの家に放り込んで放置した位だし、義母様は俺をとにかく嫌っているから居なくても問題は無い。…だから、今更親の顔をされても困る。俺はちゃんと自立してやっていけるんだ。俺のやる事にとやかく言って欲しくない」 反抗期の子供のような言い分だが、リシェにとっては放っておいて欲しいのだろう。 ほぼ放置されてきた立場かもしれないが、やはり何の知らせも与えないのは問題だと思う。しかもリシェはまだ子供と呼ばれてもおかしくない年齢だ。彼が完全に身寄りが無いのならまだ分かるが、複雑であるにせよ家族の存在があるのだ。 ヴェスカは頭をガシガシとかきむしりつつ、唸りながらリシェに続けた。 「お前はそう思っていても、向こうは違うかもしれない。向こうがお前の存在を知った時は、絶対にお前の口からきちんと説明をしろ。ロシュ様に迷惑をかけたくないなら、自分の尻拭いは自分でやれ。…ろくに説明せずに逃げるのは許さねぇぞ。俺だってこう見えても宮廷剣士だからな、司聖様の立場を脅かす不穏分子は即座に処分しなければならない。物凄く意地悪な見方をすれば、お前は他国からわざわざロシュ様を貶める為に近付いたと思われてもおかしくはないんだ。別にシャンクレイスの人間を信じていない訳じゃない。お前やスティレンのような奴はレアケースなんだよ。自分の国でやれるような事なのに、わざわざ故郷を離れて他国の護衛の剣士がしたい物好きなんてどこに居る?お前達は不審な要素が無いし真面目だから何の問題も無いけど、下手したら疑われる危険がある事もちゃんと頭に入れておけ」 「そんなに大袈裟な事か」 「大袈裟な事になる要素があるって言ってんだよ。例えばお前が暗殺者だったとして、ロシュ様の命を狙うもんなら俺はお前を必ず殺さなきゃならねぇんだ。お前が命乞いをしてもそれが仕事だからやらなきゃならねえ。これは極端な話だけどな。…飛躍し過ぎたわ。俺が言いたいのはお前が家出して、実はロシュ様の所で暮らしてますって知ったら、普通の親なら誘拐されたんじゃないかって思うもんだ。お前がそれを望んでもだ。この国の司聖は誘拐犯だと思われちゃ大問題なんだよ。それを避けたいから説明しろって言ったんだ」 そこで、ようやくリシェは顔を上げヴェスカを見た。 分かった…と呟き、気が進まないながらも承諾する。 「ロシュ様の為なら仕方無い。あまり会いたくないけど、リオデルよりはマシだから何らかのアクションがあったらきちんと説明する」 「余程嫌いなんだな…」 「会いたくないんだ」 再び強い雨が降り出し、屋根をひたすら叩きつける音が聞こえてきた。 喧しいなと呟き上を見上げた後で、ヴェスカはお前が物分り良くて良かったわと笑う。 「じゃあ、あとはもうこのまま戻ってもいいぞリシェ。ロシュ様の所に行ってやれ」 「片付けしなくていいのか?」 「あんなのすぐ終わるだろ」 そうか、と納得したリシェ。 雨が落ち着くといいなと思いながら、彼は大聖堂に向けて歩き出す。 「リシェ」 「ん?」 フードからぱらぱらと水滴を落とし、リシェは振り返ってヴェスカを見た。 「…近いうちに親父さんにはバレるだろ。そうなればすぐにお前の身内にもバレる。聞く限りにはその兄貴がここに来る事は無さそうだけど、先回りして対処するようにしろ」 念の為に忠告すると、リシェはこくんと頷き再び歩き出した。雨音がやかましくなる最中ヴェスカは彼の小さな背を目で追いながら、慣れない説教なんてやるもんじゃないなと感じていた。 早足で大聖堂の敷地内に入り、外套の雨水を払ってから司聖の塔へ向かう道を進んでいく。 天候が優れない為に来訪者も少なく、いつもより閑散としている中庭を通り掛かっていると、目の前に真っ白な法衣を纏う背の高い男の姿を確認した。 物腰の柔らかい雰囲気が、どこかロシュに似ている。 「レナンシェ様」 彼は中庭で伸びている唯一の大きな木の下に立ち、その成長ぶりを見ているようだった。 昔からこの存在を知っているのだろう。その様子はどこか感慨深いものを感じた。 「やあ、リシェ君」 「お一人ですか?」 やはり挨拶をしない訳にもいかず、リシェは声だけかけてすぐに退散しようとした。 「ああ、子供達は図書館で勉強中なのでね。君は任務明けかな?」 「はい。雨で崩れた場所の修復作業が一先ず落ち着いたので。…この様子だと、また駆り出されそうですけど」 「そうか。…それはお疲れ様だね」 リシェは水滴が滴る外套を脱ぎながら「任務ですから」と軽く笑った。 レナンシェは目の前の小さな騎士役を静かに見る。 こんな細身の体で剣を振るうのかと内心疑わしく思っていたが、ロシュが言っていたように彼の能力は目を見張るものなのだろう。 剣士になる為の試験もクリアする程に。 彼を見ていると、ふと腰に身に付けていた剣に気付いた。レナンシェはリシェに「随分変わった剣を持っているね?」と問う。 リシェは腰元にあるピンクゴールドの剣の柄を手にしながら、照れ臭そうに「ロシュ様から頂いたものです」と返事をした。 ほう…とレナンシェは目を細めた。 ロシュから賜わった物なら、彼の性格上揃いで自分の杖も新調したのかもしれない。 嬉しそうに答えたリシェに対し、レナンシェは少しだけ不快感に襲われた。 他人には知られたくない、醜い感情なのは理解していた。だから余計に不愉快極まりない。 「さぞかし美しい剣だろうね、リシェ君。ロシュは余程君の事がお気に入りのようだ」 まだあどけない顔立ちをした少年が、ロシュの気持ちを完全に捉えているのが何度も微妙な気分にさせてくる。 大人の顔をしながらも、レナンシェはリシェに対し意地悪をしたくなっていた。 「俺はただの剣士ですから。お側に居られるだけで光栄な事です」 「司聖を守る役目を担うには君のように意識の高い子が居ると安心だ。…良かったら、少し見せてくれないかな?その剣からロシュの魔力を感じる。かなり濃い魔力を入れ込んだようだね」 リシェは何の躊躇いもなく腰に掛けていた剣のベルトを取り、鞘に収められていた美しい剣をレナンシェへ手渡す。金色の装飾が施された白い鞘からスラリと細身の剣を抜き、なるほどと感嘆の声を上げた。 柄頭の部分に埋め込まれた赤い魔石から、ロシュの魔力を感じる。 剣身にも彫り込みがある事から、かなりの特殊な加工を施されているのが分かった。 持ち主であるリシェも欠かさず剣の手入れをしているのだろう。角度を変える度に剣から鋭い輝きを放ってくる。 「なるほど。大切にするだけあるね」 「はい。俺の宝物です」 「そうか。…君の大切な宝物か」 レナンシェはそう呟くと、ふわりと魔法で浮かび上げると何を思ったのか本人の目の前で彼の剣をフッと消してしまった。 えっ、とリシェは目を見開いて驚く。 「れ、レナンシェ様!?何を!」 何が起きたのかリシェには分からず、消えてしまった剣を探して辺りを見回す。さっきまでは彼の手にあったものが綺麗さっぱり消えていて、手元に無い事に焦り出した。 無邪気な笑みを浮かべ、レナンシェはリシェに「少し借りるとしよう」と告げる。 「か、返して下さい!あれは俺の宝物だって言ったじゃないですか」 リシェは慌てながらレナンシェに掴みかかった。 少し前までは幸せそうな顔をしていたのに、大切な宝物が無くなった事で絶望感溢れる表情を見せるリシェが妙に可愛らしく思えた。 レナンシェは苦笑しながら「大丈夫だよ」とリシェを落ち着かせる。 「時期が来たらちゃんと返してあげよう」 「嫌だ、今返して下さい!あれは俺が頂いたものなんだ。あなたの物じゃない。今すぐに返して下さい!」 「…じゃあ、少し私に付き合って貰えるかな?君に見せたいものがあるんだよ、リシェ君」 …一方的に人様の剣を無くしたくせに、付き合って欲しいだと? リシェは眉を寄せ、自分よりも遥かに背の高いレナンシェを見上げ嫌そうな表情を見せる。 「あまり反抗的にならないで…君の態度次第で、剣を早めに返してあげてもいい。見せたい場所があるんだよ」 優しい口調だが、有無を言わさない圧力を感じる。 リシェは前にロシュが忠告した内容を思い出した。 あまり近付いてはならない、と。 だがロシュから貰った剣をこのままには出来ない。この事を彼が知れば、きっと悲しむだろう。 同時に、何故最初にロシュの注意を思い出さなかったのだろうと自分の愚かさを責めた。結局後の祭りだ。 奥歯を噛み締めながらも、リシェは分かりましたとだけ告げる。 にっこりとレナンシェは笑うと、雨避けの外套をまた着なさいとリシェに言った。 湿っぽいと変な場所に癖っ毛が出てしまうのが嫌なオーギュは、普段はそのまま放置気味の髪を緩やかなオールバックにして書物や資料の束を手にロシュが待つ塔へ向かっていた。 雨降りだと魔法で上に上がる事が出来ないので階段を使うしか無いのが不満で、いかに面倒な螺旋階段をパス出来るかと頭の中で考えている。 体力にあまり自信が無い彼は、あの無駄に長い階段がとにかく嫌だった。 あの螺旋階段の中には照明用の魔石が張り巡らされている為に、迂闊に自分の魔法を発動させると石が暴発する可能性がある為使えないのだ。 自分の癖っ毛に加え、塔に通う際に螺旋階段しか使えないせいで、オーギュは雨の日が好きでは無い。 ファブロスに乗せてもらう事も考えたものの、お前は楽をする事しか考えないのか?と呆れられそうでやめた。 結論が出ないまま、大聖堂の中庭内に足を踏み入れる。 天井からの激しい雨音を聞きながら、オーギュは早足で先へ先へと進んでいた。 不意に正面入口の方向へ目をやると、雨避けの外套を被った来訪者達が数人居る。このような雨の中、よく足繁く通うなと感心しつつ、なかなか止みそうに無い雨にうんざりしてしまった。 はあ、と深い溜息を吐いた後に一瞬リシェの弱い魔力の流れを感じて入口方面に目を凝らすが、来訪者に紛れてかき消されてしまった。 …何故一瞬それを感じ取ってしまったのか。 奇妙に思っていたが、彼は大聖堂の住人なのだからそう感じても不思議ではないと自分を納得させた。 とにかく今はあの螺旋階段だ。 昔から勉学の虫で、体を動かすのは得意では無く体力にはとにかく自信が無い。だからこそ気楽な魔法で塔の最上まで飛んでいるのだ。 中庭を通過して塔へ繋がる小道を重い足取りで進んでいると、目の前でやがて怪しげな白衣姿の青髪の青年がウロウロしている。 彼は気に入っているのか、よくこの小道に出現する。 前回はルイユと一緒の時だったな、とオーギュは思った。インパクトのある牛乳瓶をくっつけたような丸眼鏡を着用し、素顔が全く分かりにくい顔と変化する彼はオーギュを見るなり「ややっ」と変な声を上げていた。 「やあ、オーギュ君!久しぶりだね、元気かい?」 「こんにちは、トーヤ。一応元気ですよ。…またここで何をしているんですか?」 暇を見てはあれこれ研究を重ねるのは見習いたい。 「いやね、自動で散水出来る機材を作りたくてね。中庭の手入れとかわざわざ水を持ち込まなくてもいいだろう?大きな物を作るより先に、小型の試作品を試そうと思ってねぇ」 「はあ」 彼の足元には散水機器の試作品が置かれていた。パッと見れば、まるでホースが付いた掃除機のようにも見える。 後部には魔石が組み込まれたリールが付いていた。どのような仕組みなのかは詳しくは知らないが、どうやらこれがスイッチのようだ。両サイドには水の入ったタンクまで付いていて、なかなか本格的。 このようなものがあれば、他の用途にも応用出来るよとトーヤは得意げに口角を上げて自慢げに言った。 へえ…とオーギュは興味を持つ。 「凄い物を作るんですね」 「ふふ、まずは成功しないとね。これから試してみようと思うんだよ」 よいしょ、と言いながらトーヤは機材を持ち上げた。やはり重みがある為か、心なしかふらついている。 「重そうですね」 「ははは、水も入っているからね!予定はこれより大きくて、車輪をくっつけて引っ張るタイプだから今はこれで十分さ」 「なるほど…」 意気揚々と開発途中の散水機を抱え、トーヤはにこやかに「さあ、いくよー!」とホース部分を固定すると、後部にあるリールを回し始めた。 ドドドドとうるさ過ぎるモーター音が周囲に響き、数少ない通行人がしかめっ面をしながら耳を塞いでこちらを見ていく。 オーギュもその凄まじい音に耳を塞いだ。 「音、凄くないですかっ!?」 ついトーヤに叫んだ。しかし彼は間近なモーター音の方が大きい為か、オーギュの指摘は聞こえないらしい。 「ええっ!?何だってー!?」 彼も叫ぶがオーギュには聞こえない。 激しい音の中、気を取り直して散水のロックを外す。 すると掴んでいたホースが急に暴れだし、ぐるんぐるんと水を噴きながら回りだした。 「わっ、冷たい!!ちょっ…!」 まるで生き物のように噴き出した水は、狂ったように所構わず暴発する。 案の定、オーギュにまで降り掛かってきた。 「うわわわわわわ!!」 製造したトーヤですら慌てている有様。 「止めなさい!トーヤ、止めなさい!!」 「えええ!?なにーっ!?」 「止めろと!!言って!!いるんです!!」 「なにーっ!?」 やはり聞こえないらしい。 爆音を鳴らし、ぐるんぐるんと回転する散水ホースを押さえて水を撒き散らす有様は、ある意味通り魔のようにも見える。 水が無くなれば放水が止まり、動作も止まるかもしれない。 「これは失敗ではないんですか!」 「えーっ!?」 …駄目だ。通じない。 両側のタンク内の水が尽きてきた頃、流石に動きは止まるだろうとオーギュは踏んでいたものの、ホースの回転は全く収まる気配を見せない。 むしろ水の重みが無くなった事で、余計に回転が早くなった気がする。 「あわわわわわ!!」 「スイッチを切りなさい!これは失敗作です!」 僅かにオーギュの叫ぶ声が聞こえたらしく、ようやくトーヤはスイッチを切った。同時に爆音はぴたりと止まり、ホースの回転も止まる。 しゅるしゅると小さくなる爆音。 トーヤは機材から手を離すと、疲れ果てたのかそのまま尻餅をつく形でへたり込んだ。 「あぁああ…良かったあ、止まってくれた」 「もう少し改良が必要ですね」 びしょ濡れのオーギュは眼鏡を外すと、胸ポケットから眼鏡拭きで水滴を拭う。 散水機は先程までの喧しさを失い、完全に停止している。 「まあ…爆発しなかっただけでも良かった」 「私はびしょ濡れですがね」 「あははは、申し訳無い。どうだい、うちの研究室の対人乾燥機でゆっくり乾かしていかないかい?試作品の段階だけど」 「あなたの所にはどれだけ試作品があるんですか…私は魔法でどうにかなりますから大丈夫ですよ」 「そうかい?残念だなぁ」 何が残念なのだろう。 ぼたぼたと水滴を垂らしたままのオーギュは、魔法で風を作り上げて自分を乾かした。 おおっ、とそれを目の当たりにするトーヤ。 「やっぱり魔法は便利だなあ。びしょ濡れでも乾かす事が出来るからねぇ」 目立ち過ぎる眼鏡を直し、羨ましそうな口調で彼はオーギュに言った。 「旅先では便利ですね」 「うーん、残念。僕にも僅かばかり魔力が残っていたらねぇ。生活に便利なレベルなら有り難いと思っていたのに」 トーヤがかつて魔導師を目指そうとしていたのは記憶に残る。今では完全にその力が無いのが残念だとオーギュは思っていた。 少年期から成長するにつれ、彼の魔力は何かに吸い込まれるかのように力を失い、最終的には完全に無くなっていた。 これは決して珍しい事では無いが、魔導師を目指そうとしていた彼の絶望感は計り知れないだろう。 魔導師を目指しながらも、それが叶わなかった者達は落伍者と呼ばれているが、差別的な呼び名だとして面と向かって呼ぶ者は居ない。 オーギュは苦笑いしながら、トーヤが作った散水機を見て「改良が必要ですね」と言った。 「でもこれが成功すれば、大聖堂の壁の清掃にも役立ちますよ」 「そうかい?そっかあ、清掃活動も可能か。それなら洗剤を入れてホースに繋げる機能も追加しなきゃなあ。…他に何か役立てそうな機能があればいいのだけど。いっそバキューム機能を付けてみるか…」 「放水に特化しているのに、逆にバキューム機能はいらないと思いますよ」 「い、いらないかな?」 「本来の目的を無視しちゃいけないと思いますけど…」 何を作っているのかを見失いそうになるのではないかと心配になってきた。 助言を聞いた上で、トーヤは「なるほど」とケロッとした様子で笑顔を見せる。とは言うものの、顔半分は眼鏡のせいで目の表情は分かりにくかった。 「それじゃあ放水をメインにやった方が良さそうだね!ちょっと考えてみるよ!こうして失敗を沢山重ねて、改良点を見直していけば素晴らしい物が出来上がってくるもんさ。ありがとうオーギュ君!!」 「え?あ…は、はあ」 「近いうちにまた再改良した物で試してみるさ!あっははは、楽しみだ!実に楽しみ!それではオーギュ君、また会おう!」 前向きな言葉で彼は機材をがっしと抱え、重みでよろめきながらさっさと研究室の方へと去っていってしまった。 残されたオーギュはぽかんと口を開けていたが、はっと気がついて自分が持っていた書物や資料の束を見る。 先程の水の暴発に巻き込まれた際にふやけたそれらを見て、彼はがっかりと肩を落としてしまった。 ぬかるんだ道をまた歩く羽目になるなんて、とレナンシェの後ろをついて歩くリシェは、鬱々とした気持ちに陥っていた。 前を進むレナンシェは、白い外套を纏いながらこのような天気にもかかわらず飄々として先へ先へと進んでいく。 大聖堂から街へ下り、住宅地を潜り抜けて見慣れない小道を通った後、街外れの鬱蒼とした森へと入る。地理に詳しく無いリシェは不安を抱えながら、文句を言う事無くレナンシェに着いていった。 このような場所に何があるのか。 彼が言う自分に見せたいものとは何なのか、リシェには分からなかった。 「アストレーゼンの雨は珍しくてね。一旦降り出せばなかなか止みそうに無い程しつこいのが特徴なんだ。降っては止んで、降っては止んでの繰り返しなんだよ」 「………」 森の中は更に地面が悪く、足を取られがちになっていた。 剣を返して貰えないのに加え、用事も無いのにこんな場所まで付き合わされなければならない苛立ちがリシェを苛んでいるが、相手は歯向かえない司祭の立場にある人間だ。彼は自分の立場を理解した上でリシェを従わせようとしているのだろう。 しかもこちらが、他国から来た一般の剣士出身なのを分かっているのだ。 悔しくて堪らない。 外套のフードの奥でぎりっと奥歯を噛み締めていたリシェに、レナンシェは「さあ、着いた」と声をかける。 顔を上げて見たその先には、一軒の古びた建物だった。 「……え……?」 「懐かしいなあ。昔と全く変わらない」 外壁はあちこちはがれ、老朽化が進んでいる。昔はかなりの洒落た別荘だったのだろうが、今では廃墟も同然のあばら家のような佇まいだった。 リシェは「どうしてここに?」と問う。 レナンシェはふっと微笑むと、逆にどうしてだと思う?と聞いてきた。 「分かりません」 ぷいっと彼から目を逸らす。 そんなの、知る訳無いじゃないかと。 端正な顔で苦笑しながら、レナンシェは建物のドアを開けた。 「さ、リシェ君」 勧められるままに内部へ入った。意外にも、中はそこまでぼろぼろにはなっておらず打ち捨てられた家具も磨けば使えそうな様相を見せている。 赤い絨毯が敷き詰められた床や、飾りっ気のある階段部分も立派な物だった。 「ここはあなたの別荘だった場所ですか?」 慣れた様子で家の中に入る辺り、彼が関係する屋敷かと思っていた。だがレナンシェはクスッと笑うと違うよと返す。 「この家はラウド家の物だった家だ。ラウド家は勿論分かるね?ロシュの家だよ。向こうの家のご先祖様は昔あちこちに別荘を構えようとしたんだけど、ここは魔力的な意味で場所が悪かったようでね。…建てた後でたちまち周りが森に変化して、維持するのは難しいと判断して打ち捨てられた家なんだ。取り壊そうにもここは精霊達の通り道らしくて邪魔が入るんだよ。だから何十年経った今でもこうして廃墟が残っている。精霊達の放つ魔力の淀みと一緒にね」 「………」 「一番淀みの深いのは地下なんだけどね。若い頃、私とロシュはよくこの家に遊びに来ていたものさ。さ、こっちだよ」 軋む床に配慮しながら、リシェは導かれるまま奥へと進んでいく。メイン通路を通り、そこから違う通路に入る。暗がりの中で不審な気持ちを持ちながら歩いていると、やがて物置のような部屋に入った。 古びている上に湿気もあり、不快な匂いが漂う。 「懐かしい」 周囲を見回し、感慨深い様子を見せるが、リシェには何の感情も湧かなかった。自分にこのようなものを見せて、一体何になるのか。 「ここが見せたいものなんですか?俺には全く関係無いじゃないですか。早く剣を返して下さい」 レナンシェはまあまあとリシェをなだめた後、奥へと進んだ先で屈む。 「よ…っ!」 床の一部に隠し扉があるようで、それが開くのを見た。 扉は鉄製で、開くにも少し力が必要のようだった。 「ラウド家は家を建てる際には、何らかの有事の際を考えて避難場所を必ず作っていたんだよ。この別荘はこの場所だ。よく私達はこの地下に潜っていたものだ。さあ、リシェ君」 「俺に見せたい物って…まさか地下の部屋ですか?何の意図があるんです」 嫌な予感がする。 リシェは更に警戒し、レナンシェに冷たく言葉を投げつけていた。 「君に見せたいのはこの先にあるよ。さあ、来て」 「………」 床の下は鉄の梯子が掛かっていた。 下に降りると意外な事に壁も頑丈な作りになっていて、ほとんど劣化していない。 やや鉄臭さが気になるが屋敷と正反対で、しっかりしていた。 「ここに何があるんです」 お互いに身に纏っていた外套を脱ぐ。雨に濡れ、ぼたぼたと水滴が床を濡らしていった。 きょろきょろと辺りを見回すリシェ。 「私達はこの地下の部屋で、良く魔法の勉強をしていたものさ。普通に暮らせるレベルで家具も揃っているからね。逢瀬には格好の場所なんだよ」 「………」 レナンシェはツカツカと足音を響かせ、一枚の黒の壁の前に立つ。 そこでようやく彼はリシェが一番知りたいものを教えてきた。 「この部屋の中が、君に見せたいものだ」 暗めの赤に染まった瞳をレナンシェに向けながら、リシェは不愉快そうに眉を寄せる。 部屋の入り口が見えない。そこは単なる黒い壁だけで、ドアノブすら見当たらなかった。 「部屋?」 「そう…部屋だ。特殊な加工を施されていてね。これは魔法の力で開くんだよ」 黒い壁に向け、レナンシェは手をかざす。同時に魔法陣が青白く壁に描かれ、曲線を作り上げてあらゆる線と線が繋がっていった。 暗がりに美しく輝く青白い線。 真っ黒なキャンバスに自動的に描かれた円陣は、すうっと壁内に吸い込まれていく。その美しい様子は、つい見惚れてしまう程だった。 レナンシェの魔力を吸い込んだ黒い壁は、楕円形の空洞を作り室内へと誘う。 「…さあ、リシェ君。私達の隠れ家にようこそ」 まるで招待客をもてなすように手を振り、悪戯っぽい微笑みを浮かべてレナンシェは言った。 不審な気持ちを隠せぬまま、リシェはそろそろと中へ進む。 ただ剣を返して貰いたいだけなのに、こんな場所まで引っ張られてしまうとは。 リシェは室内へ足を踏み入れると、その後にレナンシェが追って入ってきた。 「ああ、変わって無いね。ちょっと灯りを点けようか」 暗すぎて足元が分からない。 照明用の魔法石を灯すと、ようやく室内が明らかにされた。 ぼんやりと照らされた内部は、簡素な家財道具が置かれ、一つの部屋として成り立っている。このまま打ち棄てるには勿体ない位、劣化した様子は無い。 床は真っ赤な絨毯が敷き詰められ、この場所だけ時間が止まってしまったかのような雰囲気だった。 「え…」 「勉強には最高の場所だろう、リシェ君」 「………」 「君にはしばらくこの部屋に居て欲しい」 室内の状態に、本来の目的を忘れそうになっていたリシェはレナンシェの言葉を瞬時に飲み込めなかった。 「え?」 「君にしばらくここに居て貰いたいと言ったんだよ」 「は!?何…何それ…!?どういう」 にこにこと優しい笑みをしながら、レナンシェはリシェの前に立った。そして彼の顔を両手で包み込み、低めの声音で言い聞かせるように囁く。 ぞくりとするその低い声は、リシェの耳の奥を突いた。 「…この部屋はね、よくロシュと体を重ねた場所なんだよ」 「………!」 リシェはレナンシェを見上げた。 「ちょうど君くらいの年だ。プライドが高くてやたら意地っ張りでね。それが可愛くて可愛くて堪らなかったものだ。私に抱かれる時のギャップが余計にね」 何故彼は自分にそんな話を聞かせるのか。 混乱しながらも、リシェはレナンシェの話を続けて聞いていた。 「あのタイプは一途だと思っていたんだけどね」 「?」 「どうやら君が出てきた事で鞍替えをされたようだ。あんなに沢山可愛がってあげたんだけどねぇ」 リシェの顔をゆっくりと撫でながら、彼は残念だと溜息混じりに言った。 「そんな事を聞かせても、俺にはどうしようも」 「そうだね。…でも嘆かずにはいられないんだよ、リシェ君。どうやら君は隣の国から来たらしいじゃないか。隣の国で剣士をしていればいいものを、何故アストレーゼンに来たんだい?君が居なければもっと違ったかもしれないのに」 「あなたには関係無いでしょう。俺はここで剣士になりたかったんだから。剣を返して下さい」 レナンシェの手を払おうと身動ぎしながらリシェはぴしゃりと突っぱねた。 ふ…とレナンシェの薄い唇の端が上がる。 「君の記憶を見せて貰おうかな。君がここに来た理由は聞かせて貰えないようだからね」 白い法衣の中で身動ぎしていたリシェは、目を見開き体を強張らせた。 「なっ…!何、意味が分からない。記憶を見るって」 「大丈夫だよ。別に酷い事をする訳ではない。君は少し思い出すだけだろうけどね。さあ、リシェ君」 レナンシェの手が顔から頭に移動する。 思い出したくないリシェは全力で拒否し、相手から逃れようと身を捩った。 「嫌だ、離して下さい!!いやだっ」 「そんなにかき乱されるのが困るのかい?」 逃げようとするリシェの細い腕をしっかり掴むと、ぐいっと無理に自分の胸元へ引き寄せる。ひ、と声を上げて恐る恐る見上げる彼の目は、まるで小動物のようにも見えてきた。 両腕をぐっと伸ばして離れようともがく。 「そこまで嫌がると余計覗きたくなるのが人間というものだ。リシェ君、大人しくしなさい」 「離し…やだっ、やめて下さい!!」 あまりにもリシェの反抗が激しいので、レナンシェは仕方無く魔法の詠唱をする。 すると急激にリシェの体の力が抜け、自分の意思とは裏腹にがくりと床に膝をついた。同時に両手首に革製の手枷が嵌められてしまう。 あらかじめ持参していたのか、とリシェは愕然とした。 最初からこうするつもりだったのかと。 「あ…!?」 レナンシェはリシェの体に軽く乗る形で上から押さえると、勝ち誇ったように妖艶な微笑みを向けた。 「君の負けだ、リシェ君」 「く…っ」 「下手をすると君はロシュだけではなく、国を乱す原因になる可能性があるからね。まずは君の素性をまず知らなければならないんだよ。純粋な気持ちからなら構わないが、人の心は分からないものだ。君がロシュをたぶらかすなら、早めにこの場で処理をしておかなきゃね」 「冗談じゃない!俺は、ロシュ様をお守りしたくて!」 反論するが、レナンシェの右手がリシェの頭を押さえつけてきた。真っ赤な絨毯がちくちくと刺激してきて、リシェは痛痒さにううっと呻く。 「見せて貰うよ」 嘲笑うように彼が言うと、リシェの頭の中がズキンと痛んだ。その後に視界がぼやけていく。 「あ、あ…っ」 ぼやけた視界のその先は。 蔑む目線を送ってくる血の繋がりの無い母親、腫れ物を触るような様子を見せてくる使用人。 分厚い壁を間に挟んだように他人扱いをしてくる一族。 汚らしい商売女の子供が、と罵倒する声。 「ひ…っ」 レナンシェも同じ記憶を見ているのだろうか。 一番誰にも触れて欲しくない、そして見られたくないものにズカズカと土足で踏み込んできて見ているのだろうか。 汗がじっとりと吹き出し、目の焦点が合わなくなってきた。 「いや…だ、見ないで下さ…やだ…」 知らず知らずのうちに、リシェはひたすらそう呟く。 暗闇の室内、数人の異様な熱に浮かされた数人もの男達。全身を押さえつけられ、服をはぎ取られ無数の手が体を探り、汚れた舌が肌を這う。 リシェは呻き、ガタガタと震えた。 「み、見るな…見るなっ、嫌だあああ!!見るなあああ!!!」 喉の奥が枯れんばかりに絶叫する。 自分の意思とは関係無しに、リシェは記憶を呼び起こしてくるレナンシェに叫んでいた。 「触るな!俺に触るな!!殺す、殺してやる!」 記憶にある野蛮な男達へ憎悪の言葉を投げつけ、消し去ろうともがく。 「それが君の本心かい?」 リシェの脳内に浮かぶ数人の男達は、彼の体を蹂躙し続けていた。不快感が全身を襲い、吐き気が湧いてくる。 「う、う、やだっ、嫌だ…気持ち悪い」 脳内のビジョンでは、男達が代わる代わるリシェの胸を吸い上げる記憶が映されていた。 それを興奮した面持ちで見下ろす兄。 リシェは弱々しく喘いでいたが、やがてその兄の姿を思い出し再び怒りが湧いてきた。 「ほう、リシェ君。君は向こうではこんな扱いを受けてきたのかい?可哀想に…だからこの国に来た訳だ」 「は…っ、はあっ…う…」 苦しさに咳き込む小さな体。 あの薄汚い輩に触られるのを思い出すだけでも全身が強張り、体が震えてくる。手首を拘束する革の枷がそれを更に思いださせられた。 レナンシェはリシェに乗ったまま、焦点の合わぬ目で身をぶるぶる震わせる様子を眺めていた。 「もう少し掘り下げてみるか」 「あ…っ!」 記憶を更にかき乱される。 兄に悪戯をされている最中、母親に見つかった場面が頭をかすめた。 正気に戻った兄はリシェに誘われたと嘘をつき、それを信じた彼女に気絶するまで殴られ続けた記憶。一番思い出したくない過去だった。 眼前で手が飛んでくるのを受け入れるしか無かった。 顔の痛みよりも心が痛かった。 罵声を浴びせられ、人格を否定する発言を聞きながら違うとだけしか返せない。 「違う…違…」 弱まり、虚ろな目からは大粒の涙が溢れ出す。 …こんな事思い出したくない。 すすり泣く声が部屋の中に響いた。 レナンシェはリシェから体を離すと、指をパチンと鳴らして記憶の模索を止める。 その瞬間、リシェも我に返った。 「あ…ああ…」 泣き腫らした瞳をゆっくりとレナンシェに向ける。 ふふ…と優しい笑みを返しながら、床に横たわるリシェに体を傾け密着した。 「君は汚れたのかい?」 ここまで人を落としておきながら、この大人は更に抉ってくるのか。 人を救う立場の司祭のくせに。 リシェはレナンシェをきつく睨んだ。 「汚れてなんかないっ」 「そうかな?…君の記憶を辿れば、沢山の男達に弄ばれたようだけどね」 「………!」 「あんなに触られているなら、君は売女と同じなんじゃないかな?そんな君がロシュに取り入るとは」 売女。 その言葉は、あのリオデルの母親からよく自分に浴びせてきた言葉だった。 この国で聞く羽目になるとは、とリシェは身を縮める。 目が熱い。悔しくて涙が止まらなくなる。 思い出したくない記憶を無理に起こされ、特別何かした訳でもない相手にここまで蔑まれ、貶められるとは。 「残念だよ、リシェ君。君はロシュの護衛の騎士には相応しくないようだね」 「…っく、ふ…っ」 優しい口調なのに、レナンシェの言葉は完全にリシェの心を削ってきた。奥歯を噛み締め過ぎたせいで顎が軋み、じわじわと痛い。 「この事は本人にも知らせてあげよう。彼がどんな反応をするのかは分からないが、私は君を認めたくはない」 「………」 呼吸を整えていくうちに、リシェはようやく冷静さを取り戻してきた。 そもそも、何故無関係なレナンシェがこのような発言をしてくるのだろう。大聖堂に所属している訳ではなく、彼は単にロシュとの知り合いなだけだ。 そんな相手に自分達の事を引っかき回す権利は無いはずなのに。 「決めるのはあなたじゃない」 リシェは小さく反論する。手枷で不自由な手で顔を濡らす涙を拭うと、弱々しかった目に力が少しずつ入ってきた。 「ん?」 「ロシュ様はそれでも俺を受け入れてくれた。だから俺はそれに従う。あなたがどう言おうが、俺はあのお方を護衛する立場だ」 「………」 「俺が気に入らないならそうすればいい。…今のあなたを動かしているのは、俺に対する嫉妬心からだ。ロシュ様の為と言いながら自分を哀れむ為に俺に八つ当たりをしているだけだ、違うのか!」 …いくら幼かったロシュでも、このような発言はしなかったなとレナンシェは目を細める。 大人しそうな顔をしているくせに、こんなに生意気に反論出来る子だったとは、と。同時にリシェの方が遥かに大人びた思考を持っていると感じた。 リシェの頭を床に押し付けながら、彼は更に密着し、変わらぬ優しい口調を保ちつつ冷静に「君はロシュとは違う性質のようだね」と耳打ちする。 甘やかされた環境で育ってきたロシュと、劣悪な環境に置かれたリシェとの意識の違いの為なのだろうか。 まだ子供なのに、大人顔負けの観察眼を持っている。 しかし、こんな子供に言われたくはなかった。 「今の君は私の手の中だ。私がこうしたいと思ったら、君はどうにでも転がるんだ。悪いけど、君はしばらくここにいて貰う」 「…剣を返す約束だろう。返して貰いたい」 この期に及んで剣の心配をするリシェに、レナンシェはにっこりと笑いかける。 「ここに使いを寄越す。彼に持たせておくよ」 「約束が違う!」 「言っただろう、時期が来たらちゃんと返すって。私はすぐに返すとは言ってないけどね」 リシェはギリっと歯を噛み締めた。 「あんたは司祭の癖に嘘吐きだ!人を騙して楽しむ下衆な人間だ、恥を知れ!!」 愛くるしい顔から想像もつかない罵倒の言葉が室内に響く。 レナンシェは先程の優しい笑みから一転し、無表情でリシェの体を無理に仰向けにさせると、彼の体を組み敷きまさぐり始めた。 ひっ、とリシェは声を上げる。 リシェの足を無理に開かせて自分の体をねじ込むと、強気な口調で「その気になればね」と低い声で囁いた。 「私は君を犯す事も出来るんだよ。君が見せてくれた男達よりももっと濃厚なセックスが出来る」 「あ…っあ」 レナンシェの真っ白な法衣の腕は、リシェの足を撫でていた。身を硬直させてしまった小さな体の反応を確かめ、怖がらせるかのように続ける。 「君はとても敏感そうだからね。さぞ美味しいだろう。この未熟な体をふんだんに使ってロシュを籠絡したのかい、リシェ君?」 「やっ…は、離せっ!」 しなやかな手が、服越しにリシェの中心に触れてきた。 ひ!と細く白い喉元から声が漏れる。 手付きは優しいが、ねっとりとしたいやらしさを与え、多少の刺激にも耐えきれないリシェをきつく苦しめてくる。 「あっ、嫌だ…っ!!」 「この部屋は生活が成り立てるだけの設備は揃っている。好きなだけシャワーを浴びる事も出来るからね。勿論君が望めばの話だけど」 「俺はあなたとなんかしたくない!!」 絞るような叫び声と共に、レナンシェの愛撫が止まった。クスッと笑うと、ようやく彼はリシェから身を離してそのまま立ち上がる。 顔を真っ赤にしたまま、リシェは体を団子虫のように丸く縮めて興奮を押し留めようとした。 こんな男に触れられて反応するなど恥だ、と。 「君の行動範囲はこの部屋だけだ。手枷は解いてあげよう。…結界を張っておくから、逃げようとは思わない事だ。司祭である私への侮辱行為は敢えて触れないでおこう」 手枷を解かれたリシェは屈辱感に苛まれつつ、自分に恥を与えてきたレナンシェへ軽蔑の目を向けた。 「ロシュ様に選ばれた俺に対してこんな仕打ちをしたのを棚上げして、侮辱も何も無いだろうに」 彼が自ら選んだ護衛剣士に対して危害を加えれば、それはロシュに対しての反逆になりかねない。 アストレーゼンの最高位が選ぶ騎士に対して不満を持っているのだろうと解釈されるかもしれないのだ。 「…君は可愛げが無いね」 「騙して嘘を吐く卑怯者よりはマシだと思います」 …どこまで強気な子なんだろう。 自分がもし短気な暴漢なら既に手が出ている所だ。 レナンシェは落ち着いた表情のまま困った子だと呟く。 突然、リシェはガバッと起き上がる。そしてレナンシェを振り切り部屋の真っ黒な扉へ向けて走り出した。 今なら出られるかもしれないと踏んだのだ。 「無駄だよ、リシェ君」 彼の声を無視し、リシェは壁のように立ち塞がる扉に手を当てた。しかし、あの青白い魔法陣は出現しない。 自分の魔力を与えればいいのかと試みるが、それでもびくともしなかった。 こちらに近付いてくる足音を聞きながら、リシェは何度も何度も試す。 だが無情にも、壁は応えてはくれなかった。 くそ!と扉に拳を叩きつけると、自分の目の前が真っ暗になった。レナンシェの影がリシェを包み込む。 「扉には鍵があるように、この魔法壁にも専用の鍵がある。鍵穴が合わないと意味が無いんだよ。合致する魔法陣を知らなければ開かない」 嘲笑されている気がして、リシェは背後に居るレナンシェを見上げた。彼はすぐ真上に居る。 「君はとても利口だからよく分かったろう。私がいいと言うまで、君はここから出られないんだ」 「最低だな、あんたは」 もう司祭だとは思えない所業だ。 リシェはレナンシェを睨みつける。 優しげに微笑まれても、今は嘘っぱちに見えてきた。 「大人しくしていてくれれば、危害は加えない。君はロシュから相当寵愛されているようだからね。変な事をすれば、あの子から雷が落とされてしまう」 人の剣を奪ってここに閉じ込めている段階で、十分過ぎる位の危害を被っているとリシェは内心毒付く。 レナンシェは壁に背中を向けるリシェの手を掴み、無理矢理部屋の真ん中へと引きずった。 「ぐ!」 「さて、私は大聖堂に戻るとしよう。君は大人しくここに居るんだ」 そのまま無造作にドンと突き飛ばされる。 古いカーペットの上に転がり、リシェはレナンシェを見上げると「あんたがしているのは監禁だ」と恨みの入った声を上げた。 「俺を閉じ込めている間、どうロシュ様に説明をする気だ?あの方は少しでも俺が居ないと心配するんだぞ」 「ふふ、ロシュには臨時の任務が入ってしまったと伝えればいいだけさ。君は真面目だから臨時の任務となればすぐ向かうだろう?緊急で任務が出来てもおかしくはない。この大降りの天気だしね」 「………」 レナンシェはリシェに視線を合わせるように屈むと、彼の顔に手を当てて優しく撫で始めた。 「君は可愛らしい顔立ちをしている。ロシュが夢中になるのも分からなくは無い。…でもあの子のように、全く可愛げが無いのが残念だ。ここに閉じ込めておけば多少は従順になってくれるかな?」 自分の言いなりにさせるのが目的なのだろうか。 リシェはレナンシェに対し、ふざけるなと彼の手をぱしっときつく払いのけた。 「俺が従うのはロシュ様だけだ。何をされようが、他の誰にも従う事は無い」 「そうか。残念だね」 こんなにまで強情だと崩したくなる、とレナンシェは嗜虐心を湧かせてしまう。それを悟られぬように立ち上がると、部屋の扉に魔力を込めた。 黒い壁は魔方陣を描き、ぱっくりと口を開く。 「しばらく任務の疲れを癒しておきなさい、リシェ君」 開いた瞬間、彼が起き上がって抜け出す隙を見計らっているのをレナンシェが確認すると、無駄な事はやめなさいと止めた。 諦めが悪いリシェはぐぐっと言葉を詰まらせる。 「君にはどうやっても抜け出せないよ。仮に私を倒そうとしても、魔法の力の前では赤子同然だ。諦めた方がいい」 魔力が絡むと、まだ見習いレベルのリシェにはどうする事も出来なくなる。 物理的な物ならどうにかなるはずだが、リシェの魔法の力では到底レナンシェに対抗出来なかった。 そして、魔力の力で無ければ開ける事が出来ないという魔法壁。このような壁があるのかと愕然とさせられてしまう。 「なら、あんたを力づくで倒すしか無さそうだ」 あの扉が開いている間に。 剣はロシュから賜わった物の他に、宮廷剣士用の剣がある。常に二つ所持しているリシェは、その剣に手をかけながらゆっくりと腰を上げた。 司祭相手に刃を向ける行為は間違っていると思うが、この状況ならば正当防衛になるだろう。 レナンシェはリシェが発する物々しい雰囲気に、ついくすりと吹き出していた。 「無駄な足掻きだ、リシェ君」 リシェは余裕をかますレナンシェを無視すると、茶色い鞘から剣を抜き彼に向け刃を振り下ろした。 その間、数秒。 切り裂くつもりは無く、寸前で止めるつもりだった。 …だがその僅かな時間の間、レナンシェは自分が愛用する杖を出してリシェからの攻撃を受け止めていたのだ。 ガシンと硬いもの同士が激しくぶつかり合い、お互いに緊張感を滾らせる。 いつそんな暇があった?と互いの武器同士を交差させながらリシェは思う。 ぶつかり合った衝撃をその身に受け、じりじりと後退し、強気な舌打ちする愚かな少年剣士を熟練の司祭は見下すような目を向けた。 「馬鹿な事を。私はロシュに魔法を教えていたんだよ。そんな相手に勝てると思っているのかい」 力が強い。 押し付けてくる杖に、更に力がこもった。 リシェも対抗して、自分の剣を逆に押し上げていた。 「う…っ、くっ…」 「…手のかかる子だ。どうしようもないよ、君は」 耳に届く低めの声。その瞬間、リシェの体はレナンシェから弾き飛ばされてしまった。 彼の肉体的な力の他に、魔法の圧力も感じる。 その振り切る力の中にこもる威圧感は、リシェの体を萎縮させるには十分過ぎる。 うわあ!と地下にリシェの悲鳴が響いた後、体が奥の壁にぶち当たりドシンという鈍い音と共に室内が振動した。 ぐらりと頭の中が回り全身に激痛が走る。 「痛っ…」 「ではリシェ君。地下の生活を楽しんでおきなさい」 そう言葉を投げ付けるレナンシェの表情は、自分を嘲笑うかのようにも見えた。 ぱっくりと開かれていた黒い扉はレナンシェを向こう側へ押しやると、再び重苦しい壁へ変化を遂げる。 この密室は窓らしい窓が存在せず、完全に閉鎖された空間だった。 こんな屈辱を受けねばならないとは。 レナンシェの遠ざかる足音が耳にこびりつく。 「…くそっ、ふざけやがって!!」 リシェはその足音に向け、激しい悪態をついていた。 隣の時計塔の夕刻を知らせる針を眺め、ロシュは心配げに「遅いですねぇ」と溜息交じりに呟いた。 作業に使ういつものソファに腰を掛けたままのオーギュは、仕事の手を止めると彼の呟きに頭を上げた。 また激しい雨が窓を叩きつけてきて、風もやや強まっている。 「リシェですか?」 「ええ。もう戻って来てもおかしくはないのに」 「状況が状況ですからね。道の修復作業やら破損した場所を補強しに向かう場合もありますから」 「そうなんですね…はあ…」 がくりと肩を落とすと、ロシュはすごすごと部屋から出て行った。 どこへ行ったのかと眉をひそめていると、彼は再び自室の扉を開けて入って来る。 リシェの部屋からクマのぬいぐるみを持って。 またかとオーギュは無表情のままロシュに目を向けた。 「いつ戻ってくるか分からないのは辛いですね」 「それは数日経っても音沙汰が無い時に言うものだと思いますけどね」 新婚の妻みたいにリシェがなかなか帰らないのを嘆き、女々しく彼の匂いが染み込むぬいぐるみを抱きしめるロシュ。オーギュの目にはとにかく情けない姿に見えていた。 「これではなかなか止みそうもありませんね」 オーギュも立ち上がると、窓に近付き様子を眺める。 珍しく上空の雲の隙間から一瞬雷鳴の光がちらつく。遠くの城下街は激しさを増す雨により、やや薄れて見えた。 アストレーゼンの住民達も、今日は慎ましく家の中で過ごしている事だろう。 「こんな雨に濡らされては風邪をひいてしまいます」 「…そんなに長くは外に出ないとは思いますけどね。朝から出払っていたんですか?」 「ええ。こちら側の仕事が無ければ、あの子は向こうの仕事に行きますから。今日は朝から出てますよ。だからそろそろ戻って来てもいいとは思うんだけど」 「………」 この部屋に来る前、大聖堂入口付近で感じたリシェの魔力は何だったのだろうとオーギュは思い出していた。 妙にそれが引っかかってしまう。 「兵舎に確認しますか」 「へ?め、珍しい。あなたが?」 「あなたが動けばいちいち問題になるでしょう。だから動かないで下さい。雨避けの外套を借ります。階段を上り下りするのが面倒だ」 眼鏡を外し、オーギュは小さなクローゼットを開き、数種類ある外套の中から雨避けの物を選びしっかりと着込んだ。全身を完全に覆った外套は、法衣を身につける者には最適だったが、それなりにやや重い。 しっかりと袖口を閉じ、頭にフードを被るといつものように窓に出る。 ぶわあっ!とカーテンが暴風に舞い上がり、雨水が入り込んできて、オーギュは咄嗟に目を閉じた。 すぐ後ろでロシュが不安そうに見ている。 「あ、あの、気をつけて下さい」 「大丈夫ですよ。窓を閉めなさい」 「ですが見送らないと」 その間にも激しく雨が室内に入っていく。 いちいち見送らなくてもいいのに、こんな時にすら変に気を使われても困る。 「いいから閉めなさい!」 「は、はい!」 慌ててぴしゃりと窓を閉めた。 オーギュはそれを見た後、激しい雨が打ち付けてくる中ふわりと体を浮かばせると、いつものように塔から飛び降りた。 ピシピシと全身を叩きつけるかのような大雨で、飛行するスピードにも若干の負荷がかかってしまう。 大聖堂の入口付近まで飛ぼうと決め、そのまま目的地まで向かった。 空からの景色は毎度浮遊するオーギュには珍しくはないが、このような天候で眺めるのは新鮮だ。 空は淀み、湿気が含む空と叩きつける雨。 空全体がまるで、泣き喚いているかのようにも思える。 屋根をひたすら打つ雨は、弾かれては下へと流れていく。稀に上空で雷の前兆を感じて、急いで大聖堂の中庭の吹き抜けからするりと入り込んだ。 中庭の屋根がある場所に着地し、雨に濡らされた外套を軽く払うと、周辺を見回す。 やはり多様な人種が集まりやすい中庭ですら、人の姿はあまり見当たらなかった。観光客の為の売店でも、売り上げは望めないのか閉店していた。 夕刻過ぎた時間とあり、しかも天気も悪いのでこの辺りも薄暗い。 雨を払いながら入口まで向かっていると、外からこちらに上がって来た人の姿が見える。 白い外套を脱ぎ、その下にも真っ白な法衣を身に付ける三十代の男の姿。若干疲れを見せつつも、その端正な顔は見る者を魅了させた。 「レナンシェ殿?」 オーギュは顔見知りの彼に声をかけた。 「…おや?どうしたんだい、オーギュ」 レナンシェもまさかオーギュと会うとは思っていなかったのか、驚いた様子を見せていた。 外套の雨粒を払い、綺麗に畳んでいるレナンシェは「酷い雨だね」と苦笑する。 「ええ」 「お陰でこの大聖堂の滞在が伸びてしまった。見習いの子達は絶好の勉強のチャンスが出来たけどね」 「そうですね…沢山勉強するにはいい環境ですから、存分に吸収出来ますよ。レナンシェ殿は何故こんな悪天候の中外出を?」 「ふふ、戻りの馬車の予約変更をね。先に済ませてしまわないと、予約が取れないかもしれないと思って。まあ、フレンリッカまで向かう人はそんなに居ないだろうけど念の為にね」 「なるほど…」 「では、私はこれで」 レナンシェはオーギュに軽く頭を下げた。 「ああ、そうだ。少し前にリシェ君と会ってね。任務が思いの外時間が掛かるらしいから遅くなると言っていたよ」 「…リシェが?」 にっこりと微笑むレナンシェは、「そう」と頷く。 「ロシュに伝えに行こうとしていた所だ。どうやら君はリシェ君を探しに来たみたいだし、ちょうど会えて良かった。じゃあ」 「………」 彼はそう告げた後、大聖堂の奥へと姿を消した。 オーギュはやはり遅くなるのかとやや納得したが、不意にロシュの言葉を思い出す。 あの人が善とは言い切れない、と。 何故このセリフが頭に浮かんだのだろうか。 そして仮に彼の言葉をロシュが聞いたとしても、ロシュは信じられないのではないか。そして注意しろと言っていた相手に、リシェはわざわざ伝言を頼むだろうか。 …何より自分はリシェを探しに出てきたとは、レナンシェに一言も言っていない。 なのに何故彼は、自分がリシェを迎えに来たのだろうと思ったのか。 兵舎にも確認しに行かなければ。 オーギュは再び雨の降りしきる中、階段を駆け下りて宮廷剣士兵舎へ走った。 雲の流れを事務室の窓から見つめていたヴェスカは、まだしばらくかかりそうだなと溜息をつく。 自分達の任務は終了したが、班長であるヴェスカは報告書を記入し、週締めの記録をまとめている最中だった。 剣士は班ごとに交代制で雨の被害の復旧作業に出払い、現在事務室の中は一日の作業を終えて戻って来た第二班の班長ヴェスカと、剣士達に指示を下すゼルエのみ。 作業を終えた剣士達は既に帰宅を済ませていて、兵舎の中には誰も居ない状態だ。 「ヴェスカ」 事務室の奥の席でヴェスカがまとめた記録帳をチェックする士長のゼルエは、冷静な声で呼びかける。 「はいっ?」 「記録はしっかりしている。…だけどこの文字の汚さはどうにか修正出来ないものかな」 「一応…読めなくはないでしょ?」 「お前の文字を読むのは時間がかかる。文章の先と後を読んで、ようやく意味が分かるんだ。古代の文章を解読するような気分にさせられてしまう。お前の班だけだ、確認するのに時間がかかるのは」 「ええ…」 自分の文字は古代文章レベルなのかとヴェスカは愕然とする。 もしかしたら古代文字に失礼に当たるかもしれないが、そこまで変な文字だとは自分でも思えなかった。 「今更感が半端ないんだけど…」 「学校で言われなかったか?」 「あー…うん」 言われた経験はあるようだ。だが彼は直そうとはしなかった模様。 「まあ、これから直すっていうのもなあ…子供用のドリルで練習だけでもした方がいいぞ」 「そんな暇ありますかね…ドリルって…」 そこまで言われてしまうのか、とヴェスカは肩を落とした。 ゼルエは手元にあるお茶を飲むと、渋そうな顔で「温いな」と呟く。難解な文字列を解読するのに夢中になってしまったせいで、熱さが抜けたようだ。 それを見て、ヴェスカは新しいお茶を器に注いでゼルエの机に置いた。 「ん?…ああ、すまない」 「いえ…」 相変わらず雨は激しく窓を打ち付けてくる。 昔からある建物の為に窓ガラスも若干薄く、少し強い雨や風だけでも危なげな音を立てていた。 しばらく雨の音を聞いていると、事務室の古いスライド式の扉がゆっくりと開かれた。 急な来訪者に、事務所に居た二人は一斉に扉に目を向ける。地味な外套のフードを脱ぎながら姿を現したのは、大聖堂からやってきた宮廷魔導師の一人。 「オーギュ様、どうされました?」 雨に打たれてずぶ濡れのままのオーギュは、入口に少しだけ進むと「お聞きしたい事があるんです」と話を切り出した。 雨の中では眼鏡は邪魔になるのか、裸眼のまま。 切れ長の目が目立って氷のようにシャープな印象が濃くなるが、緩やかなオールバックのヘアスタイルも相まってぞくりとする色気が増している。 ゼルエは椅子から立ち上がると、その場で立ち尽くすオーギュに「どうか中へお入り下さい」と勧めた。 だが彼は首を振ると「いえ…ご覧の通り雨に降られてずぶ濡れなので」と断る。 「重要な書類が濡れては困るでしょうし」 「そんな事ありませんよ。寒いですからどうぞ」 オーギュはゼルエの近くに居るヴェスカをちらりと見た後、本題に入った。 「リシェはまだ出払っていますか?」 彼の質問を受け、ゼルエとヴェスカはお互い顔を見合わせた。そしてヴェスカが怪訝そうにオーギュに返事をする。 「リシェならもう帰ったけど…戻ってねぇの?」 「え」 「作業から戻った後に野暮用であいつと少し話をして、先に帰らせたんだよ。あいつの事だから、すぐに戻ったと思うんだけど」 「………」 どういう事なのだろう。 オーギュは返す言葉を失った。 「オーギュ様?」 「そうですか…分かりました。珍しく寄り道をしているのでしょう」 頭の中を整理しようとしながらも、混乱してきた。 これで分かった。レナンシェは明らかに嘘をついている、と。 「お騒がせしました。失礼します」 再びフードを深く被り、オーギュは事務室から出て行った。ゼルエは不思議そうな顔でヴェスカに「どういう事だ?」と問う。 「リシェはすぐ帰るタイプだぞ」 ロシュの元に行く前は、ゼルエは彼と同じ部屋で寝食を共にしていた。リシェが任務が終われば真っ直ぐ帰宅するタイプなのは、十分理解しているのだ。 「いや…あいつが寄り道するはずねぇんだけど…ちょっと行ってきます」 ゼルエ同様、ヴェスカもそう思っていた。 ヴェスカは上官に頭を下げると、急いでオーギュの後を追い事務室から飛び出した。 「…オーギュ様!」 大聖堂方面に向かっているオーギュの姿を見つけるなり、ヴェスカは彼の名を口走っていた。 雨に降られ、鬱陶しい湿気の中でオーギュは声がした方に振り向く。 「?」 「何かあったのか?俺はあいつを他の奴より早く帰したんだ。あいつが寄り道するなんて有り得ない。しかもこんな雨降りに」 「…ええ。私もそう思います」 「変な事に巻き込まれたのか?」 「まだ分かりません。ただ、大体の目星はついているのであなたが首を突っ込まなくても大丈夫です」 それだけ言うと、オーギュは再び足を進めた。 「馬鹿言え、俺はあいつの上官だぞ!部下の安否を心配するのは当然だろが!目星が付いてるならそれをはっきりしろ!俺にはそれを知る権利がある!」 もやもやさせられるのは好きでは無い。 言い方を濁され、ヴェスカはムッとしていた。 「あなたがまだ明確では無い事で暴走されても困るんですよ」 「はい!?」 「相手は私達より立場が上なんです。下手に騒ぎ立てれば罪になる。だからこれは私らに任せて下さい」 「立場が上だって?お偉いさんなら何をしてもいいのかよ?随分と傲慢だな」 ヴェスカはオーギュの左腕を掴んだ。 力のある彼がオーギュの細身の腕をがっちりと掴めば、締め付けられるような痛みを感じる。痛っ、と顔をしかめると離しなさいと命じた。 「私に言っても仕方無いでしょう。どうにか探し当てますから落ち着きなさい」 「俺は部下の安否を心配しているだけだ。いくらお偉いさんでもやっていい事と悪い事がある。言え、誰だよそいつは」 「私はあなたをみすみす破滅させたくない。あなたがどんなに私に対して狼藉を働こうが決して口を割る事はありません。ですからこの件はこちらに任せなさい」 お互いの視線がぶつかり合った。 「そのお偉いさんの名前も言うつもりはねぇのか」 「言う訳にはいきません」 「…ご立派なご身分の人間を守る為か?」 「私は向こうを守る義理も無いし、仮に守ったとしても何の得にもなりゃしません。…私はあなたを守る為に言っているんです。あなたが暴走して、罪に問われるのが嫌なのです」 明確な意見をぶつけられ、言葉を詰まらせた。 ヴェスカは苛立ちを抑えながらオーギュの腕から手を離す。 彼にぶつけてもどうしようもないのは、自分でも良く分かっている。だが言わずにはいられなかった。 「…なら早くどうにかしてやってくれ。あいつは大事な俺の部下で友達だからな。でないと俺が直接探し出してその相手を引きずり出してやる」 「ええ。分かっています。この件はどうか内密にお願いします」 念を押すようにヴェスカに告げ、オーギュは再び大聖堂方面へ向かおうと足を進める。 まだ雨は続いていて、湿った空気がしつこく纏わりついていた。 ヴェスカは兵舎に何本も立てかけてあった大きな傘を手にすると、オーギュの後を追いかける。錆びついて古びた傘だが、まだ使える物だ。 「オーギュ様!」 「?」 まだ何か言い足りない事があるのかと彼は眉を寄せた。 ヴェスカは手にした傘を開き、「ほれ」とぶっきら棒に突き出す。 むやみに怒鳴った後で、いたたまれない気分を誤魔化すように目線を逸らしながら。 「こんな降り方だとレインコートじゃ足りねぇだろ」 「………」 「ぼ、ボロいけどちゃんと開くよ?」 開閉し、取り繕うように言う。 上品な育ちであるオーギュに渡す物にしては、流石に古過ぎてマシなのを選ぶべきだったかと内心焦っていたが、もう差し出してしまった為に手遅れだ。 オーギュはふふと笑みを浮かべると、古臭い傘を受け取った。 「随分年季の入った傘ですね」 「そんなにずぶ濡れだと風邪ひくし。こんなのでも、無いよりマシだと思って」 「大丈夫ですよ。後は戻るだけですから…」 そう言いながら傘を手にして自分より少し目線が高いヴェスカを軽く見上げると、素直に礼を告げた。 屋外に出る際にヴェスカに渡された傘を開くと、オーギュは「意外にあなたは部下思いなんですね」と呟く。 滅多に聞かないようなオーギュの褒め言葉を受け、ヴェスカは目を丸くするが、すぐにニヤニヤと人懐っこい笑みを浮かべる。 「惚れたろ?」 どうよと言わんばかりに変な事を言い出した。 「いいえ」 しかしオーギュは普通に返す。 「惚れろよ!!何普通に否定してんだ!」 「私はそう簡単に落ちません」 そう言いながら傘を手に外へ足を踏み出すと、不満げなヴェスカに向けてふっと強気に微笑む。 あなたも変な人ですねと。 「俺がぁ?何でよ」 「変ですよ。普段はふざけているくせして、非常事態になると頭が固くなる。とにかく強情で、絶対曲げようとしない性質。私が一番やりにくいタイプです」 「へえ…んじゃあ、オーギュ様は押しに弱いのか!なるほどなるほど」 「何か勘違いしてませんか?」 彼はどうやら違う方向に考えているようだ。 「いや、どっちにしろ押しに弱いんだろ?なら俺があんたに好きだって言い続けたらそのうち分かってくれるんだろうなってさあ。よしよし、それならチャンス有りだな!」 酷い勘違いを起こしているヴェスカに、オーギュは「帰りますね」と無視して歩き始める。 少し褒めるようなニュアンスで言えば、凄まじい勘違いを起こしてしまうらしい。 言わなければ良かったと後悔する。 「オーギュ様、オーギュ様!」 「………」 「なあ、オーギュ様ってばあ!」 まるで甘えたがりの大型犬のようだ。 あんなにデカい図体をして、母親を望む子供のようにべたべたと懐いてくる。 ああ、としんどさを含んだ溜息を吐いた後、くるりと振り返って「何ですか」と無表情で問う。 外に出ずに軒先で止まっているヴェスカは、降りしきる雨の中佇むオーギュに向けて「覚悟しとけよな」と無邪気に言った。 「俺はめちゃくちゃしつこいからな。絶対に惚れさせてやるからよ」 その髪の色と同じように、彼は真っ赤な熱を帯びたセリフを普通に吐く。 「ああ、それも何度も聞いたような気がします」 「忘れねえように何度も言ってんだよ!」 オーギュは一度言われれば理解出来る頭を持っているが、ヴェスカはとにかく何度も言わなければ気が済まないらしい。 言う本人が忘れっぽい性質だからなのだろう。 「そうですか。では失礼します」 適当に流し、オーギュは再び雨の中を歩き始める。 …全く、何故彼はああなのだろう。 今までに無いタイプでむしろ新鮮だが、長話をしていると疲れてくる。 何が良くて好きだ何だと言い出すのか理解出来ない。 戻る為に濡れた路面を進んでいくと、暗がりの中大聖堂側から走り抜けてくる人影が見える。 こんな時に訪ねて帰る最中なのだろうかと変に印象付けられるが、特に珍しいものではなかった。 「お疲れ様です。配達ですか?」 すれ違い様にオーギュは人影に声をかけた。 しとしとと降る雨は、お互いの雨避けの外套を叩きつけんばかりに打ちつけてくる。 びくりと反応し、相手は「は、はい」と返した。 まさか声をかけられるとは思わなかったのだろう。 「こんな時までお仕事とは。ありがとうございます。どうかお気をつけて」 特に何を言う訳でもなく、ぺこりと頭を下げると相手は足早に去っていった。 オーギュは鬱陶しそうに空を見上げる。 煩わしい湿気と、振り払ってもまとわりつく雨音。 さっさと晴れないかと思わずにはいられなかった。 …微かに外気の湿った流れを感じた。 地下ながら、空調はしっかりしているようだ。古いはずなのにこの部屋だけは特殊らしい。 リシェは脱出を試みたが何度繰り返しても扉は無反応を示す為、完全に萎えて床に寝転がり休んでいた。 真っ赤なカーペットの毛を握り締め、ぼんやりとロシュの事を思う。 今頃レナンシェは彼に自分は護衛する騎士には相応しくないと吹き込んでいるのだろうか。 しくじった。 ロシュと繋がりがあるからと、完全にレナンシェを信頼して剣を手渡してしまった自分の浅はかな行動が悔やまれる。事前にロシュは警告してくれたのに。 こんな時ですら、呑気にも空腹感がリシェを襲う。 作業をしていて、なかなか食事にありつけていなかったなとぼんやり思い返していた。 次にレナンシェが来たらあのキザったらしい顔を殴りつけてやろうと顔に似合わない事を考えていると、遠くから足音が聞こえた気がした。 昔から音には敏感だった。実家に居た際も、こちらに近付いて来る足音に聴覚を研ぎ澄ませていたから。 …彼がまた来たのだろうか。 それにしても、やけに小走りだ。 流石に第三者はこんな廃れた建物に入っては来れないだろう。 この壁が完全に塞がれた部屋に入れる者は少ないはず。 既に体力的にも限界で、考える事にも疲れ果てたリシェは遂にうとうとしていた瞼を閉じる。 外部の音を完全に遮断しようとしたその時だ。 カシャンとどこかで音が聞こえた後、ひやりと冷たい風をその身に感じた。 「…シェ、リシェ!」 一気に現実に引き戻される。 ガバッと上体を起こし、リシェは咄嗟に身構えた。 「ああ、良かった…倒れてるかと思った…」 目の前に、穏やかな表情で安堵するシエルの顔があった。リシェは眉を寄せ、警戒して尻餅をついたまま後ずさりする。 彼はレナンシェに一番近いのだ。 「何であんたがここに居る?」 シエルは怪訝そうな顔を向けてくるリシェに少し驚いた顔をしたが、申し訳なさそうにしゅんとして「ごめんね」と口を開く。 主人であるレナンシェの愚行を申し訳無いと思っているのだろうか。それとも上辺だけの謝罪なのだろうか。 警戒し続けているリシェには、それはどうでも良い。 「レナンシェ様に頼まれて…晩御飯、持って来たの」 「………」 シエルが言った通り、彼の手にはパンやフルーツ、水筒が入ったバスケットがあった。 怪訝そうにリシェは問う。 「その為だけに来たのか?俺の剣は?」 「あ…」 「あんたの主人が俺の剣を奪った。ロシュ様から頂いた大切な剣だ」 「廊下に立て掛けてた綺麗な剣だよね。…ごめんね、絶対に渡さないようにって言われたの」 言いにくそうに話すシエルに、リシェは怒りが湧いてくるのを感じた。 どこまで人を馬鹿にすればいいのだろうか。 思うより先に、リシェはシエルに食ってかかっていた。 「渡さないように、だと!?あんたは俺の監視をする為にいちいち食糧を持って来たのか!?」 怒り出すリシェに、シエルはびくっと身を竦めた。 そしてぶんぶんと首を振り、違うんだよと返す。 「何が違う!?あんたはあの司祭と繋がってるじゃないか!何を吹き込まれたか知らないが、俺はロシュ様を陥れようなんてしていない!!あいつは俺を騙して剣を奪ってここに閉じ込められたんだ、それが何だ、呑気に食べ物の心配だと!?ならさっさとここから出せばいいじゃないか!!」 感情を爆発させるリシェを、シエルは目を瞑りながら聞いていた。 「この部屋に入って来たなら、出る方法も分かるだろう。黙って俺をここから出せ!!あんたらの暇潰しにに付き合ってやる義理は無い!」 不満を吐き出し、リシェはシエルを睨んだ。 怯えたような様子のまま、一方のシエルはふるふると首を振り拒否する。 「…駄目だよ、僕は頼まれただけなんだ。レナンシェ様の意に沿わない事なんて出来ない」 「…何だって?」 「僕にとって、レナンシェ様は自分の命より大切だから。僕にはあの方しか居ないんだもの。逆らって、呆れられて捨てられたくないんだ。だからあの方の命令に従う」 ふざけるな、と言いかけたリシェに、シエルは真っ直ぐ見据えて話を続けた。 君なら僕の気持ちが分かるはずだ、と。 「君にはロシュ様が絶対的な存在であるように、僕はレナンシェ様の存在は絶対的なんだ。だからあの方の命令に従う。君の剣を渡す事は出来ない」 「………!」 シエルは困惑を含みつつも、はっきりとリシェに告げた。 この感情をどこにぶつければいいのだろう。 リシェは奥歯を噛み締め、強い意志で要求を拒否するシエルを見ながら思う。 彼が自分の要求に応じない理由が分かるだけに、レナンシェの言う事など無視しろとは言えなかった。 主人の意に沿わない事をして、失望されたくないと言う彼の気持ちが分かるから。 「ごめんねリシェ。ごめん…無理だ。無理なんだよ。あの方に嫌われたくないし、失望されて捨てられたくない」 「あんたの主人がしている事が間違っていてもか」 リシェの質問に、シエルはこくんと頷くと床のカーペットに視線を落とした。 「例え間違っていても従う事しか出来ない。僕にはレナンシェ様が全てなんだ。あの人が居なければ生きていけない」 「それだとただあいつに縋り付いているだけじゃないか。お前の意思は無いのか」 「従う事が僕の意思だ」 お互いの視線がぶつかり合う。 軟弱な印象とは真逆に、全く動じないシエルにリシェは根負けし、舌打ちして顔を逸らすと「くそっ」と苛立った。 従者として当然の事をしているだけに、リシェは彼に文句をつけられない。 「…出す気が無いなら帰れ」 「嫌だ。僕は君に食べ物を差し入れしに来たんだ。これもレナンシェ様からの命令を受けて来たんだ」 「俺はあいつからの施しは受けない。だから食べない。持って帰れ」 バスケットを押し付けてくるシエルを無視し、リシェは彼に背を向ける。 とにかく今は帰りたくて堪らないのに、それすら叶わないのならばこの来訪者に用は無い。 今頃ロシュは心配しているだろう。そう思うと居ても立っても居られない。 出られないならばこちらも意地を張って、相手からのアクションを拒否して籠城するしか無いのだ。 剣を奪われてこのような場所に閉じ込められ、挙句には飼い殺しのような扱いをされるとは。余計レナンシェに対して腹が立ってくる。 「このまま何もしないで帰ったらむしろ僕も怒られてしまうよ。リシェ、一口でもいいから食べて」 「じゃあお前も怒られろ!俺だってこんな場所に押し込められて、いつまでも帰れないからロシュ様に迷惑をかけさせている!戻れば怒られるかもしれないんだ!そんなに怒られるのが怖いなら、籠をここに置いてさっさと帰れ!!」 絶対食べるものかとリシェは怒鳴る。 想像もしていなかった彼の剣幕に押され気味のシエルもまた、頑として首を振った。 「空にしないと帰らない!!」 「お前が食えばいい!俺はいらない、あいつが寄越した物なんて口に出来るか!」 背を向けたままのリシェに、シエルもムッとした顔をした。真っ白な法衣を翻しながらリシェの前にバスケットを手にしながら回り込むと、ずいっとそれを突き出す。 「駄目。食べるんだよリシェ」 バスケットから、ほんのりパンの匂いがした。 何も口にしていないリシェは食欲をかきたてられるが、意地でも食べたくない気持ちが強くて首を振る。 「嫌だと!言ってるだろう!」 頑丈な造りをしている籠を押し退け、リシェは嫌がった。しかしシエルも意固地になる相手に臆せず床にバスケットをドンと置くと、強い口調で返す。 「なら僕と一緒に食べるんだ。毒が入ってると思って警戒してるんだろ?なら一緒に食べよう。でないと僕も帰らない」 「そんな事なんか思っていない。俺はあいつの施しを受けたくないだけだ!大体、お前はあいつに利用されているのが分からないのか!」 元気にまくし立てるリシェの言葉に、シエルはぴくりと表情を固くした。 利用という発言が気になったようだ。 「あの司祭は俺がロシュ様の護衛には向かないと言ってここに閉じ込めた。ロシュ様から賜わった俺の剣を奪ってな!自分はのうのうとアストレーゼンに戻っておきながら、他人を使って様子見みたいな事をする。お前は全然関係無いのに!絶対に逆らえない立場のお前の忠誠心を利用してるじゃないか!」 言いたい事を一気に吐き出した後、喉の渇きの為か咳き込んでしまう。 全く水分補給もしていないせいでなかなか落ち着かない様子だ。細身の体が苦しさに震える。 シエルは無言で水筒の蓋を開けると、リシェの口元にそれを突き出した。 「…いっ…らな…っ」 「飲んで」 「いらなっ、い!!」 尚もゲホゲホと咳き込むリシェに、シエルも痺れを切らしたらしい。無言で無理に彼の口元に水筒の注ぎ口を当て、怒り口調で「飲むんだよ!!」と一気にリシェの頭を掴んで仰がせ、中身を注ぐ。 急に入り込む水分。 ぐ、とリシェは呻いて、強制的に入り込んでくる水を受け入れていた。 口から絶え間なく水が溢れ出す頃に、このままでは溺れかねないと慌ててシエルを押し退け離れる。 「はあっ、はあっ…何をっ、何をする!」 大人しいはずの相手が豹変したので、リシェは内心驚いていた。ぼたぼたと零れ落ちる水滴を拭うと、また軽く咳が出た。 「君が何にも口にしないからでしょ!!」 「いらんと言っただろう!」 「水分すらまともに取らないのに、延々と怒鳴るから苦しくなるんだ!」 無駄に意地を張るからだよ、と不機嫌に呟く。 飲みなよと改めて水筒を突き出すシエルを横目で見ながら、リシェは「十分飲んだよ」と返した。 「…もういいだろう。剣も返す気が無い、おまけに出す気が無いなら、お前はそいつを置いてもう帰れ。帰って、あいつに俺をどうにかしろと頼むなら構わないけどな」 こんな状態なら、それすら厳しそうだ。 床に正座したままのシエルは無言で首を振る。 「君の様子を見ていてくれって言われたんだ」 「………」 「君はロシュ様を陥れようと企んでるかもしれないって。隣の国から来たんだろう?」 適当な事を部外者であるシエルにも吹き混んでいた事に、リシェは腹わたが煮えくり返る気分になる。 ギリっと奥歯を噛みながら違う!と否定した。 「そんな事をして誰が得をする!?俺はシャンクレイスを捨てて来たんだぞ!ロシュ様の存在で、俺は生きる意味を見つけたようなものなのに!」 本気で怒るリシェの姿に、シエルはやや寂しげな顔のままでふうっと一息ついた。 「…だよね。僕もそう思うよ…君が嘘を言うタイプだとは思えないもの…」 「!?」 「僕と君は同じ立ち位置なんだ。状況は違うけど、同じなんだよ。お互い従者の立場で、主人が居なきゃ生きていけない。僕もレナンシェ様が居ないと生きる意味を見失ってしまう。だからこんなやり方に疑問を持ってても、僕は黙って従うしかないんだ。リシェ、分かるだろう?」 「………」 向き合うリシェは、かくりと頭を垂れた。 「お前の忠誠心を利用してるだけじゃないか。こんなの卑怯だと思わないのか」 「僕は君のように強くない。頼まれたからには黙って従う。レナンシェ様の言う事は絶対だ」 こんなにも一途で、真面目なシエルも利用してくるとは。彼には悪いが、余計あのレナンシェを殴りたくなってきた。 頭を垂れながら、リシェは「あいつはまたここに来るんだろう?」と問う。 「え?…ああ、うん。多分…」 「結局は、あいつがうんと言わなければ出られない訳だ。剣も返って来ないんだな」 シエルはそれに対して返事をしなかった。 鬱々とした感情を抱き、リシェは不満げに溜息を漏らす。 シエルが来た事で、この場所から出られるという淡い期待は完全に打ち消され、余計にストレスが溜まる結果になってしまうとは思わなかった。 リシェがロシュに対して絶対的な忠誠を誓っているだけに、同じ立場であるシエルのレナンシェに対する気持ちを無視する事が出来なかった。 …時間は既に夜の八時。 オーギュから話を聞いたロシュは、レナンシェ達が利用している来賓客用宿舎内で、連れ合いの少年達に彼の居場所を問い質していた。 彼らに何度聞いても部屋には戻っていないの一点張りで、何処に居るのかすら分からないとしか言わない。そんな訳あるものかと中に通してくれと訴えるが、眠っている者も居るからそれは出来ないと拒否されていた。 「では、シエル君は…あの子はここにいらっしゃいますか?」 来客用のクリーム色の寝間着姿の少年達は、お互いの顔を見回しながら「そういえば…」と不思議がる。 「見てないね…みんなそれぞれの事をしてたから」 「レナンシェ様に着いて行ってるのかも」 少年達が嘘をついているようには見えない。 その様子から、彼もここには居ないようだ。 ロシュは半ばがっかりしつつ、分かりましたと諦める。 レナンシェとシエルは行動を共にしているはずだ。あれだけ親密にしていれば、二人で動いていても特別おかしくはない。 部屋の分厚い扉を静かに閉めてやり場の無い感情を押さえていると、オーギュの静かな声が耳に入った。 「ロシュ様」 「オーギュ…どうやらここには居ない様です。参りましたね、どこをほっつき歩いているのか」 夜の冷たい空気が流れる回廊を靴音を軽く響かせ、ロシュはやや苛立ちを見せて髪をかき上げた。 オーギュの側には獣姿のファブロスが居る。 『この雨だと匂いもかき消されてしまうな』 手掛かりが無いものかとオーギュは彼を連れ立って来たのだが、ファブロスが嘆く通り大雨の為に嗅覚も鈍ってしまうようだった。 ロシュはファブロスに「そうなのですね…」と残念そうに呟いた。その気持ちだけでも有難いと思う。 「あなたにこの場所だという心当たりがあればいいのですけどね。それか魔法で探知するしか」 「………」 探知はとうに試した。 しかしリシェの感覚を察知出来なかったのだ。 どうやっても、大聖堂の入口付近で靄がかかって途切れてしまう。向こうの魔力の干渉の効果なのかリシェを感じ取れずに中断を余儀無くされていた。 ロシュは「妨害されたんですよ」と返す。 「私がリシェを探す為に探知する事を見据えたのでしょう。ここまでやられるとは」 考えるだけで段々苛立ってしまう。 大聖堂の屋根を打ち付ける雨は一向に止む気配は無く、ひたすら叩き付ける音を響かせていた。 オーギュは自分の細い腕を軽く撫で、若干の寒さを紛らわせると「何か無いんですか」と問う。 「思い出の場所とかそんな心当たりは」 「そんなもの…」 思いつかない。 あったとしても、今では形を成さない場所が多い上に、そもそも大聖堂中心で生きてきたので思い出しにくい。 頭を抱えながら考え込む。 このままでは完全に詰みそうだ。 「リシェの気配を探知しにくいなら、逆にレナンシェ殿を探知したらどうですか?」 『ふむ…なるほど。ロシュ、試してみるといい』 疑わしい者の気配を探る、という方法にロシュは目を丸くした。 そうか、と。 あれだけの魔力の持ち主ならば、魔力が強過ぎる為に隠し切れないはず。むしろ探知するには容易そうだ。 安直な考えだが、確実だと思う。 「それなら出来そうな気がします」 一種の救いを感じた。 ロシュは瞼を伏せ、疑わしき相手の魔力の流れを手繰り寄せ始める。 幾重にも重なる魔力の流れの中、唯一の糸を引くような感覚で、少しずつ気配を探った。 時間を置きながら、少しずつ馴染みのある魔力を掴んでいく。 慎重に気配を追いかけ、これだと実感するまで。 やがて明確にレナンシェを感じ取ると、ロシュは見つけた!と声に出した。 『何だ、早いな。初めからそうすれば良かったのか』 ファブロスはオーギュの足元でゴロゴロと甘え、ペットのようにじゃれつきながら言う。 「どこに居ますか?」 ロシュは複雑そうな表情を浮かべ、「廃墟方面」とだけ返した。それだけだとまるで理解出来なかったオーギュは、眉を寄せて首を傾げる。 「別宅の予定地…でも、場所が悪くて解体もままならない場所です。手繰り寄せたら、そちら側で気配が途切れた。あの場所があったのを、今まで忘れていました。塔からも見えるはずですが、木々に覆われている場所なのですっかり無いものだと思ってた」 塔からも見える場所と言われ、オーギュはふとヴェスカと街の外れに連れて来られた時の事を思い出した。 アストレーゼンの城下街一帯を見渡せる場所。 …ヴェスカがいい場所だろ?と言っていた高台。 そこから視点を変えると、鬱蒼とした森の中で古びた屋根の先が少し飛び出していたのを。 オーギュは「あ、あれ!?あれですか!?」とロシュに問う。まさかあんな廃墟が、と。 「行ってきます!早くリシェを取り戻さないと」 分かった瞬間飛びだそうとするロシュに、オーギュは待ちなさいと制止する。 「ロシュ様!せめて雨避けを持って行きなさい!」 「大丈夫です、すぐ戻ります!」 外套を用意する時間すら惜しかった。 とにかく今はリシェを取り戻す事が第一なのだ。 早く。一刻も早く。 ねえ、せめて一口だけでも食べてよ。 閉ざされた空間の中、シエルの声が響く。 あれからリシェは無言を貫き、シエルが持ち込んだ食糧に見向きもしないまま壁の方に体を向け胡座をかいていた。 魔法の力に呼応して室内を照らす石は、薄暗さを感じさせながらも未だにゆらゆらとオレンジ色の輝きを保ち続けている。 若干湿気を含む空気の中で、リシェはシエルの呼びかけを完全に無視していた。 「ねえったら」 「…お前が食えばいい。お前も腹が減ってるんだろう」 「僕は君の食べ物に手を付けたくないよ。いつまでそうしてるつもりなのさ…」 流石に疲れを感じたのか、その口調にも力が無い。 黙って自分の言う事を聞いていれば苦労しないのにとリシェはシエルに対して思っていたが、彼も彼なりの事情があるので黙っていた。 こちらはただ、この部屋から出して剣を返して欲しいだけなのに。 シエルはその事が可能なのに、レナンシェの反応が怖くてそれを拒否している。そればかりか、この部屋に居座り続けていた。 出来ないなら帰ればいいのに、食糧を空にしないと帰れないからと言ったまま。 結局自分可愛さで、この場に居続けているのだ。 何にも出来ないじゃないかと疎ましくさえ思った。 「お前が俺の言う事に従えばいい。ここから出して、部屋の外にある剣を返せ」 「無理だよ。それは無理…」 「ふん」 無理なら、こちらも好きにさせて貰う。 空腹をとうに通り越し、腹痛も発生していたが次第に気にならなくなっていた。 かっちりした宮廷剣士の黒い制服も着続けるのに疲れ、リシェは上着だけ脱ぐ。 軽くなった分、気が楽になった。 堅苦しい印象を与えてくる制服から解放されたリシェの体はやたらと線が細い事を強調していた。 同じ位の年齢でも、体が大き過ぎるレベルの人間も居るのに、リシェはまるで小動物を思わせてしまう程儚げな印象だ。 それなのに、物騒な剣を使えるとは半ば信じられない。 シエルは彼は普段きちんと食べているのだろうかと不安になってしまう。 「ねえ、やっぱり食べなきゃだめだよ」 「しつこいな」 「いつもちゃんとご飯食べてるの?」 華奢な彼の背中に向かって、シエルは口走っていた。 「何が言いたい?」 「いや、特に意味は無いんだけど…制服の下が意外に細く見えて」 リシェは言われ慣れた言葉に、ふんと鼻を鳴らした。 「言われなくても食べてるよ。たまに食えなくても平気だ」 だから早く出せば全てが解決するものを、とリシェは溜息を吐く。なかなか出して貰えないのが分かれば、向こうが動いてくれるまで待つよりない。 「ここに来る時にオーギュ様と会ったんだよ。なるべくバレないようにして食べ物持って来たのに…」 「ならお前が食うといいだろ」 「君の為に用意したのに」 「うるさいな。食べ物はいいから剣を返せ」 「それも出来ないよ。…止められてるもの…」 幸い、ロシュから賜った剣はレナンシェの手元ではなくこの部屋の外にあるのが分かっただけでも良かった。 「リシェ、君は自ら希望してロシュ様の剣士になったの?」 お互い無言の状態が辛いのか、シエルはやたらと話しかけてきた。彼なりに思う所があるのだろう。 せめて気分を和らげたいのかもしれない。 「…あいつから聞いただろ、陥れようとして近付いているって」 わざと嫌味を言うリシェ。 シエルはむうっと柔らかいほほを膨らませると、意地悪言わないでよとむくれた。 「さっき否定したじゃないか」 「そうだな」 あまりきつく当たっても仕方無い。 態度をやや軟化させ、リシェは少しだけ彼の方へ体を向けて座り直すと「俺には何にも無いから」と返した。 シエルはきょとんと目を丸くする。その様子は、さながら邪気の無い小鳥のような愛らしさを感じさせた。 彼が動きを見せる度に、ふわりと金色の髪が揺れ表情も変化する。レナンシェが養子に迎え入れる位に特別な扱いをされているのが分かる程、彼は愛嬌もあり聡明な顔をしていた。 「元々一般扱いの剣士だ。他国から来た俺にとってロシュ様は遠い存在だったから、遠くからでもお守り出来ればそれで良かったんだ」 間近で彼を守れる幸運に恵まれるとは全く思っていなかった。少し知り合うだけでも畏れ多い。 外部から来た人間にはそんな権利は無いのに。 「それって凄い出世じゃない、リシェ。君はかなり目立って見えるから、ロシュ様も放っておかなかったんだよ」 「俺が?」 不思議そうに眉を寄せるリシェに、シエルは「えっ」と拍子抜けする。 「目立つよ。自覚無い?」 「………」 相手の言葉に、リシェはやや不愉快そうな顔を見せた。 そんな可憐な形をして、目立ちたくないというのは無理がある。 ましてや、屈強な剣士の中に居るとなれば尚の事。 「あ…」 間を置いて、シエルは何かに気付いた。それと同時に、リシェも微かな魔力の流れに気が付く。 高魔力を持つ何者かが近付いてくるのを感じた。 見習いなれど力を持っているシエルは馴染み深いその感触に、若干安堵を込めて呟く。 「レナンシェ様だ」 彼の浮かれたような声とは逆に、リシェは湧き上がる怒りを押さえながら下唇を噛んだ。 カツン、カツンと靴音が近付き、大きくなる。 シエルは立ち上がると、部屋の真っ黒な壁に向かった。やがて梯子から降りてくる音がすると、前回と同じく壁が魔力に反応し円陣を描く。何も無い壁が輝き、扉になる光景は神秘的だが、それを楽しむ余裕はリシェには無い。さっさと出せるなら出して欲しいし、こんな茶番には付き合っていられないのだ。 ぱっくりと開かれ、外から真っ白な法衣姿の男が入って来た。 「…レナンシェ様!」 嬉しそうなシエルの声。 リシェは室外から再び戻ってきた司祭の姿を無言で睨みつける。 「…おやおや」 対するレナンシェも、反抗的なリシェの表情に苦笑いで返した。囚われの身だから無理も無い。 「食事には手をつけていないのかい?」 シエルが持ってきたバスケットに目を向け、全く減っていないのを確認した。 「…のうのうと飯を食べると思ったか?」 「君はやっぱり強情な性格だねえ」 お互いの視線がぶつかり合いを見せる。その様子にハラハラしつつ、シエルは「あの」とレナンシェに話を切り出した。 ん?とレナンシェは優しい目でシエルを見下ろした。 「リシェをここから出してあげて下さい。何も企んで無いって言ってますし…」 レナンシェ側だと思っていたが、まさかシエルが出して欲しいと進言すると思っていなかったリシェは驚いた様子で彼に目を向ける。 だが、レナンシェはシエルの絹のようなふわりとした髪に指を絡めると「それはいけない」と窘める。 「相手を籠絡するのはこの子の得意技のようだからね。現にロシュは彼に盲目的だ。アストレーゼンの頂点に位置しているロシュを守るふりをして、裏から操作しようとしているかもしれない。これはロシュの為だけじゃなく、この国の為でもある」 尊敬するレナンシェの言葉を飲み込み、シエルに迷いが生じるのを見たリシェは思わず叫ぶ。 惑うシエルは、リシェに対し不安そうな眼差しを向けた。 「何を馬鹿な事を!!あんたの血迷い事に、全く関係無いこいつまで巻き込むな!!」 シエルの頭を撫でていたレナンシェは、その手を止めてリシェに近付いた。 ぴたりと眼前に足を止め、見下ろす。 「それ位、君は不安要素を持っているんだよ」 威圧するように断言した。 「それなら俺を殺せばいい。その的外れな勘を働かせて、国家転覆を計った裏切り者だと俺の首をロシュ様に差し出せ。後で勘違いだと分かったら、あんたはロシュ様に完全に嫌われてその立場を追われるだろう」 「だ、駄目だよリシェ!」 咄嗟に叫ぶシエルは、慌ててリシェの元へ走った。 「レナンシェ様!リシェはここまで言ってますし、どうか疑うのは」 「シエル、君は聡明な子だ。だから私の考えが今は分からなくても、じきにに分かるはず。他国から何の後ろ盾も無い彼が、すんなりと国の懐に入るなどとは本来はあってはならないんだよ。その甘い容姿でたぶらかしていると言われても仕方ない。口では違うと言いながら、その裏側は知れたものじゃないからね」 見方によっては、そう思われても仕方無いと思う。彼だけでは無く、アストレーゼン内には同じ気持ちの人間も居るだろう。 だが、ここまでレナンシェが自分を疑い続けるのは私怨にも似た何かを感じずにはいられなかった。 「…あれこれ言い掛かりを付けなくても、単に気に入らないからと言えばいい。俺がとにかく嫌いなんだろう、レナンシェ様」 核心を突くリシェ。レナンシェは疎ましげに目を細めながら見下ろす。 ふっとレナンシェは笑った。 「そうだね。私は素直じゃない子は嫌いだよ」 「回りくどい。はっきり俺が気に食わないと言えばいいのに」 どこまでも強気なリシェが癪に触るのを内心ひた隠しにしていたのだが、ここまで「そうだろう」と突っ込んでくるのが余計レナンシェを苛立たせてくる。 彼は年齢の割に大人で、生意気過ぎる。 シエルが居なければ既に手を上げていただろう。 「…レナンシェ様」 「シエル。黙っていなさい」 シエルはレナンシェには逆らえない。 養子にして貰い、満足な生活を送らせて貰う立場だから反抗的な態度は取りにくい。レナンシェはそれを利用してこのような面倒事に巻き混んでいる。 リシェは卑怯者めと呟いた。 「俺はあんたがいいと言うまでここから出ない。逃げたりもしない。あんたが根負けするまでここに閉じ込めたらいい。剣もあんたがその手で俺に返すまで返さなくても構わない。好きなようにしろ」 「随分物分かりが良くなったね?」 「だからそいつは帰してやれ。関係無いだろう?他人を悩ませるな」 レナンシェは不安げなシエルをちらりと見た。 「親代わりのあんたが、逆らえない立場の人間を自分の都合で利用するのが気に入らない。いかに自分が恥ずかしい事をしているのか理解しろ」 座ったままのリシェの前で、無言のままで膝を付く。 変わらず強気な目をする彼ににっこりと微笑みながら、レナンシェは強い力でリシェを張った。 頭の中で雷が降り注いだような衝撃だったが、予め予測していた痛みに鈍感なリシェは、打たれてもしばらく無表情だった。 やがてじわじわと頭部に痛みが広がる。しかし、何故かリシェは笑いが込み上げていた。 何だ、自覚があるのかと。 激しい打ち付けに、シエルはつい悲鳴を上げていた。 「レナンシェ様!!」 張り倒された勢いで、リシェは床に倒れてしまう。 「大人に対して言う事じゃないね。君は礼儀も悪ければ育ちも悪いようだ」 リシェはぐらついた頭をレナンシェへ向け、きつい目でふんと鼻を鳴らす。 「俺の頭の中を覗いたから良く分かっただろう」 「可愛い顔をしているのに、君はまるで狂犬のようだ」 不敵な笑みを浮かべ、リシェは体をゆっくり起こした。 「勿論褒め言葉だろうな?」 やけに大人びた顔を見せる。瞳の色が深みのある赤色と、漆黒の髪で余計その表情が映えた。 彼は自分の最大の魅力などどうでも良いのだろう。 恵まれた容姿を無視するかのような所作は、本人が思っているよりも魅力を引き出してくる。ロシュはそんなリシェの姿に惹かれたのかもしれない。 「褒めたつもりは無いんだけどねえ…」 さて、どうしてくれようか…と思っているレナンシェは、ふと違和感をその身に感じた。 大きな魔力の流れ。 こちらに凄いスピードで近付いている。それを感じた瞬間、レナンシェは瞼を軽く伏せ溜息を吐いた。 早かったな、と思った。 そんなにまで彼がいいのだろうか。 こちらを睨みつける少年を目の当たりにしつつ、レナンシェは「面白くない」と素直に嫌味を吐き捨てると、扉の方向へ顔を向けた。 相変わらず気持ちの優しいシエルは二人に視線を配りながら不安そうにしている。 慌ただしい足音が部屋の前で止まると、黒い魔法扉に円陣が描かれ、それに応じてゆっくりと開いていった。 レナンシェは穏やかな口調のまま、「やはりバレたようだね」とやけに残念そうに苦笑いをした。 司祭特有の真っ白な法衣。 一般の司祭とは違い、特殊な金色の刺繍が入った法衣を纏う青年司祭は、雨に濡らされたままの姿で室内に入ってきた。 「…やはりこちらに居たのですね」 厳しい表情のまま、ロシュは床に座るリシェを見る。 いつも緩やかなウエーブがかった髪はすっかり湿気を吸い込んで直毛になっていた。 雨の中、必死で自分を探しに走ってきたのだろう。 現に彼の法衣は泥を跳ねて汚れていた。その姿を見ると、リシェは申し訳無さに頭をかくりと落とす。 出来る事なら、ロシュ様に迷惑をかけたくなかったと。 リシェの前に膝をついていたレナンシェは、覚悟を決めたようにスッと立ち上がった。 ツカツカと彼の前まで進み、ロシュは足を止めると、真っ直ぐに相手を見据える。 「君らしくない、みっともない姿だねロシュ」 苦笑と同時に戯けたような話し方でレナンシェは言った。 その一方、ロシュは無表情のままで彼を見つめる。いつもはにこやかで優しい顔では無いのが、リシェの目には異様な雰囲気として映っていた。 ただでさえ端正な美しい顔をしているのに、その無の表情は一気にその美貌を引き出してくる。彼の性格を知らぬ者ならば、その様相を目の当たりにすれば圧を感じて引いてしまうだろう。 やがてロシュの目付きは細く鋭くなり、レナンシェを射抜いた。 「あなたの手癖の悪さには呆れる!!」 同時にレナンシェのほほを力強く張り飛ばしていた。 リシェとシエルはその司祭同士のいさかいという珍しい光景に言葉を失い、身を竦めてしまう。 止めなければいけないと思っていた。だが、体が動かない。 しばらく膠着していた。 怒りに打ち震えるロシュ。レナンシェはふっと強気に唇の端を浮かせた後、彼の体を自分の方へ引き寄せ密着させた。 「な…っ!!」 「私は本命以外には興味は無い。手癖が悪くても実際には手出しはしないよ、ロシュ」 抱き締める形でレナンシェはロシュの動きを封じる。離れようとする彼の顎を無理矢理掴み、苛立つ表情をじっくり眺めた。 今はなりを潜めているが、レナンシェは昔からのロシュの気性を良く知っていた。 優しい顔をしながら、気性の荒い自信家。 気に入らぬ事があれば直球でぶつかってくるタイプ。そのくせ、他人の思惑にはとにかく鈍い。 鈍いのは昔と変わらないようだ。 「今まで何度もヒントを与えたのに、何にも理解しないようだね。君は鈍いしかなりのお馬鹿さんらしい。この部屋であんなに愛し合ってたのに」 ロシュはぎりっとレナンシェをきつく睨んだまま、よく言うと鼻で笑う。 「あなたの行為は遊びの延長だ」 怒りを押さえるロシュとは違い、レナンシェは終始余裕のある穏やかな顔をしていた。 「遊びが本気になる場合もあるんだよ、ロシュ」 「は…?」 意味深過ぎる発言を理解出来ないロシュは、不機嫌そうな顔のままレナンシェを見上げる。ふっと涼しげな笑みを浮かべた後、彼はそのままロシュの顎を固定しながら唇を奪っていた。 目の前の光景にリシェは勿論、シエルも絶句する。 「!?」 一番驚いたのはロシュ本人。 目を見開き、自分の身に何が起きたのかを実感するまでやや時間がかかってしまう。 「…無礼な!!」 リシェの怒鳴り声に、ようやくロシュは我に返った。 唇同士を繋げられたまま、ロシュはレナンシェを突き放そうと彼の腕の中でもがく。 呻き、首を振りながら嫌がる素振りを見せるが、相手も強い力で体を押し付けてきた。 「離れろ!」 リシェもまた、反射的にレナンシェに怒鳴っていた。 何の権利があってロシュにちょっかいを出すのか。腹の底から怒りが湧いてしまう。 口内に舌の先が入りそうになり、ロシュは思いっきり噛んでやろうと考えていたが、若干力が緩んできた隙を狙い彼の胸元をドンと突き飛ばした。 ぐらりとバランスを崩し、レナンシェは軽くよろめくがすぐに持ち直す。 そこをすかさず、リシェは食ってかかっていった。 「いくら何でもロシュ様に対して無礼だ!!何をしたか分かっているのか!!」 庇うようにロシュの前に立ち、冷静さを忘れて怒りをむき出しにしていた。突然の無礼な口付けより、ロシュを軽く見ているのが許せないと思ったのだ。 同じ司祭でも軽んじてはならない立場なのに。 「君も嫉妬するんだね、リシェ君?」 ふっと天を軽く仰ぎ、レナンシェは揶揄う口振りでリシェに言った。 「は…!?」 「私とロシュは君より深い付き合いがあったのは聞いていただろうに。無礼だと憤慨するより、今の君は私情の方が強いんじゃないかな」 指摘されると同時に、リシェはかあっと全身が熱くなった。見透かされているのが恥ずかしいのか、指摘されて余計腹が立ってきたのか、自分でも分からない感情が中で渦巻いている。 脳裏に刻まれた二人の口付けの光景を消したくてたまらない。 その映像がぐるぐると浮かび上がる。 「リシェ、そこまでになさい」 ロシュは唇を手の甲で拭うと、リシェを下げさせた。 納得いかぬ表情のままのリシェの頭を撫で、ロシュはレナンシェに改めて向き合う。 「君も罪作りだね。これだけ言っても分からないとは」 「あなたが私に対してどう思おうと勝手ですがね。私の大切なリシェを閉じ込めたのは許しておくわけにはいきませんよ。ここであなたを罰しても私は一向に構いませんよ、レナンシェ。私の力はあなたも十分分かるでしょう」 発する言葉に、力が込められるのを感じる。 ロシュがそう発言すると同時に、一気に空気が変わった。周囲を覆う魔力の流れが、ロシュに味方するかのようにビリビリと張り詰めていく。 「うあ!」 何の準備も無くその強い気に当てられ、ついシエルは悲鳴をあげていた。 突然溢れ出した強い魔力の影響下に置かれ、全身が緊張感に襲われる。 力が入らず、ついかくりと床に座り込んだ。 少年達が動けずにいる最中でも、力のあるレナンシェは至って普通にロシュに向き合っている。 変わらず余裕を見せ「困った子だ」と苦笑いした。 「禁止された魔法を使って、堕落の証を出しても構わない程この子に価値があるとは思えないけどね。残念ながら私は君と争うつもりは無い。私はこの子が危険なのではないかと危惧したから閉じ込めただけだ」 司祭が他者を傷付ける魔法を利用すれば、たちまち禁忌を犯したとされる証が体に出現する。 ロシュはレナンシェに対して明らかにいつもとは違った種類の魔法を放とうとしていた。 自ら禁忌を犯そうとする位、リシェが大切なのだというのは分かったが、彼の為に馬鹿な事をさせてしまうのは如何なものかと思う。 「だから俺はっ…」 リシェは全身の力を振り絞りながら反論した。 だがロシュが彼より先に言葉を放つ。 「私が自らリシェを護衛として迎え入れたのです。あなたの勝手な解釈で何の落ち度も無い彼を拉致して監禁した。司聖である私の意思を無視したと判断されてもおかしくはない!」 魔力の圧が強過ぎて、リシェは動く事もままならない。その一方で魔力の耐性が存分にあるシエルは、徐々に体を馴染ませながら立ち上がっていた。 レナンシェは近付いて来たシエルを優しく引き寄せる。 「残念だねロシュ。私は良かれと思って彼を引き離してみたのに。…まあ、確かにリシェ君の様子を見た限りでは君に危害を与えるタイプでも無いようだ」 リシェに目配せしながらレナンシェはふふと笑みを漏らすと、彼は「当たり前だ!」と怒鳴った。 …顔に全く似合わない勝気な暴言が非常に勿体無い。 「今後またロシュ様にふざけた事をしてみろ、ただじゃ置かないからな!!」 相手が司祭だというのを、どうやらリシェはすっかり忘れているようだった。 「…私が短気を起こす前に、あなたは大聖堂へ帰って下さい。私の気の短さは良くご存知でしょう」 ロシュはレナンシェを睨んで忠告する。 彼が短気なのか?とついリシェはロシュを見上げたが、レナンシェはそうだねと素直に返事をする。 真っ白な法衣の裾を靡かせると、レナンシェはシエルの頭を撫でながら戻るとするよと一言告げた。 相手を怒らせようが、レナンシェはその飄々とした態度を全く変えない。知り合った昔から彼はそうだった。 「やり方は良くなかったが、私は私なりに君を案じていたんだよロシュ。それを理解してくれると嬉しい」 「………」 やや埃臭さがある室内から、レナンシェとシエルは大人しく立ち去っていく。 次第に足音が聞こえなくなると、ようやく魔力の流れが収まりリシェの緊張感も解けてきた。 ロシュは座り込んでいるリシェの前に膝を付くなり、無言でがばっと抱きつく。 「リシェ、リシェ!」 ぎゅうっとリシェの感触を確かめるようにしっかり触れながら、彼を求めて名前を呼んでいた。 先程までの威圧感が吹き飛ばされ、いつものロシュが戻る。リシェも彼をきつく抱き返した。 ふわりと漂う甘い香りがリシェの鼻を突く。 いつもの甘酸っぱい柑橘系の香り。 「ご迷惑をかけてしまいました」 「いえ、ご無事だっただけでも私は嬉しい」 安心しきった様子で、ロシュはリシェの滑らかな顔に触れた。 お互いの感触を確かめ合い、体温を感じ合う。 リシェの柔らかい肌に指先を滑らせ、花の蕾のような唇をなぞる。くすぐったいのか、小さな騎士は次第に綻んだ顔をしながら腕の中で蠢き始めた。 「ロシュさ、ま」 室内のオレンジ色の灯りが二人を照らし、甘い雰囲気を作り上げていく。切なげな表情でロシュはリシェのほおを撫でながら徐々に顔を近付けた。 ぴくんと軽く怯えたようにリシェの赤い瞳が揺れる。 「んん」 逃げようとする動きを止めつつリシェの唇を優しく啄ばむように軽く自らの唇で何度か触れ、反応を楽しんだ後に深く押し付けた。 硬直する小さい体。 背中をさすり、怖がらせぬよう包み込む。 「…リシェ、大丈夫ですか?」 長い睫毛を震わせ、緊張感に押しつぶされそうな顔のリシェにロシュは問う。 彼の唇はしっとりと柔らかく、吸い付きたくなる程心地良かった。シャツから見える特有の白い肌は、照明に照らされ更に赤みを増す。 慣れない行為によって、リシェの顔も余計に赤みを見せてきた。 こくりと頷き、リシェはロシュの唇に自分からもキスをする。 微かな吐息を交差させお互いを抱き締め合い、二人はバランスを崩して横たわった。 リシェを押し倒し、触れたくなるのを押さえられずに彼のシャツの中に手をするりと突っ込む。小さな悲鳴と同時に、その細身の肉体は激しく反応を示した。 「は…っ」 喘ぐ唇に吸い付き、ロシュはリシェの胸元を探る。 「んんっ」 緊張の為か、彼の胸の突起は小さく固く屹立していた。 指の腹で軽く触れてやると、リシェは蕩けそうな甘い声を上げる。だが、その後ハッと我に返って口を押さえた。 想像もつかないような甘い声が自分の口から漏れてしまうとは思わなかったらしい。 口を手で覆い、リシェは恥ずかしそうにロシュから顔を逸らす。しかし彼より経験豊富なロシュは、駄目ですよと優しく叱った。 「勿体無いですよ、可愛いのに」 そう言いながらシャツの中にある手を動かす。 びくんとリシェの体が反応するのを見つめながら、ロシュは悪戯心に火を付けて指先を遊ばせていた。 「…っく、ふ…っ」 事を進めていくと、次第に怖くなってきたのだろう。 瞼がピクピクと震え、ぎゅうっと目を閉じて耐えるように身を硬くする。 まだ経験が浅い彼には刺激が強過ぎただろうか。 ロシュは彼の様子を見下ろし、ふっと手を止めた。 「…リシェ」 相手の動きが止まった事に気付き、リシェは閉じた瞼を開ける。こちらを見下ろしたままのロシュは、いつものように優しく微笑むと「帰りましょう」と告げた。 さあと声をかけて華奢な体を起こし、火照っている額を撫でる。 「…や、やめちゃうのですか」 意外そうなリシェの顔。 「?…えっと…したかったのですか?」 「えっ!?あっ、ち、違っ、そんな意味じゃなくて」 顔を真っ赤にして慌てるリシェ。 まるで欲しがっているように思われてしまう、と焦っていた。真っ直ぐロシュの顔を見れず、恥ずかしそうに目を逸らしながら「途中までだったから」と小さく返す。 ロシュはふっと微笑んでリシェの額に軽く口づけすると、無理はさせたくないのですと言った。 「さあ、リシェ。寒くなりますから上着を着て」 「は…はい」 乱れた服を直してから脱ぎ捨てた上着を引っ張り、素直に袖を通す。まだ触れられた興奮が冷め止まず、体が悶々とするのを我慢しながら。 知られるのが怖くて、リシェは力強く首をふるふると振り平常心を取り戻そうとした。 「あっ」 「?」 「俺の剣…」 レナンシェに奪われ、室外に置かれてあるはずの自分の剣の事を思い出したリシェは、上着のボタンをそのままにすっくと立ち上がる。 慌てた為にバランスを崩してかくりと躓いてしまい、ああっと声を上げた。 「リシェ、待って。大丈夫ですよ」 「え?」 「この部屋に入る前に、私が保管していますから」 ロシュはゆっくり立ち上がると、軽く魔法の詠唱を始めた。彼の手の中で光の粒子が出現し、じわじわと輝きが集まると、やがて楕円形に形作られていく。 光の強さが弱まるにつれ、その光は大切にしていた剣の姿に変化した。 「また持っていかれると面倒ですから、私が先に取り戻したんです」 さあ、と真っ白な鞘に収まった剣をロシュは手渡すと、リシェはそれを受け取り頭を下げた。 「すみませんでした」 「何故謝るのです?」 剣を抱きしめたままのリシェは、元は自分の不注意で起きた事なのだと済まなそうに呟く。 あれだけロシュが注意しろと必死だったのにも関わらず、彼の昔からの知り合いなのだと安心してレナンシェに剣を見せてしまったのだ。 「彼は人当たりが良いので信用してしまうのも無理は無いですから…それよりも、何かされたりはしませんでしたか?」 「俺は大丈夫です」 頭に血が上り過ぎて喧嘩みたいになってしまったけど、と困った表情で言った。 「ふ…あの人もあなたのような子に罵詈雑言を受けて、内心びっくりした事でしょう。彼の周囲には可愛らしい顔をした子供達が多いですし、まして歯向かう人も居ませんから」 「歯向かった罰を受けなきゃいけないなら受けますけど…」 「正当な理由があるでしょう。もし彼があなたが無礼を働いたと訴えても私は却下しますよ。まあ、彼の事ですからそんな面倒な事はしないでしょうし、流石に自分が不利になる問題を引っ張り出す程愚かでは無いですから」 その言葉を聞いて、リシェは少し安心する。 元の位置に剣を戻して改めて身を整えると、リシェはロシュに雨は止んだでしょうかと聞いてみた。 思い出したように「ああ」とロシュも口にする。 「そろそろ止んでくれないと困るなぁ…」 「戻りましょう、ロシュ様」 懐かしい部屋をくるっと見回した後、ロシュはにっこりとリシェに向かって「ええ」と微笑んだ。 雨はとうに過ぎ、澄み切った空気が漂う森の中で敬愛する司祭を前にして見習いの少年は無言で歩いていた。 …レナンシェ様は何をしたかったのだろう。 ぬかるみに足を取られながら、大聖堂への帰り道を進んでいく。 やがて森から開けた場所へ抜けると、雨雲が消え満天の星空が眼前に広がっていた。 「わ、ああ…見て下さいレナンシェ様!」 余りにも美しくて、ついシエルは声をかけた。 前方を進んでいたレナンシェはつい彼の声に反応して上空を見上げると、ほうと感心するように唸る。 「これは…滅多に見ないような空だ」 「宝石みたいですね、綺麗!」 お決まりのような感想を口にする幼いシエルに、レナンシェはついくすりと微笑んだ。 「他の子達にも見せてあげたいですね」 「そうだね。…でも今はもう遅い時間だ。君だけの思い出にするといい」 君だけの思い出、と言われシエルはついレナンシェの法衣の腕に手を伸ばす。 驚いたようにレナンシェは彼を見下ろした。 仄暗い月明かりにも美しく映える金色の髪を揺らしながら、シエルは「僕はレナンシェ様との思い出にしたいのです」と返すと照れ臭そうに俯く。 底に住み着いている気持ちを抑えながら。 「私と、ですか?」 「はい。僕一人じゃ、思い出になりません」 「………」 「ダメですか?」 迷惑かな、とシエルは不安そうに問う。 レナンシェは掴まれた腕を優しく離すと、一瞬拒否されたかもしれないと思っていた彼の肩を引き寄せた。 「寒いですからくっついてなさい」 「…あ…は、はい!」 急にレナンシェが近くなり、シエルはつい緊張してしまう。空気は冷え切っているが、体は熱くなるのを感じた。 空を再び見上げ、シエルは「レナンシェ様は」と主人に問いかけた。 「ん?」 「ロシュ様をお慕いしているのですか?」 足場の悪い道を抜け、舗装された道路へ差し掛かる。 街灯の灯りは濡れた道を照らし、歩く度にきらきらと輝いていた。 静かな景色に靴音を響かせながら、レナンシェはふっと瞼を伏せる。 「慕う…ねえ。どうだろうねえ。昔からの腐れ縁だからね。彼に色々教えてきたから、親のような気持ちもある。はっきりとは言いにくいね」 自分は小さい頃からロシュを知っていた。 だから、付かず離れずの関係がちょうど良かった。物事を教えていく度に次々と吸収する彼の天才肌に惚れ惚れしたものだ。 しかし成長するにつれ、彼は自分から徐々に離れていく。まるで親鳥から自立しようとする雛のように、掴もうとすると彼は手元からすり抜けていった。 そして知らぬ間に、自ら寵愛する相手を掴まえていたのだ。 自分の頭の中では、まだロシュはあの頃のままだったのかもしれない。 「好きとかじゃないんですか?」 言いながら、シエルは無意識のうちに掴んでいたレナンシェの服を強めに握っていた。 シエルの気持ちを知ってか知らずか、レナンシェはどうだかねぇとはぐらかす。 「どうだか…って…意味深な事を言いながらキスまでしてたじゃないですか。あれではやっぱり、そう思ってしまいます」 拗ねた口調でシエルは彼を見上げた。 お互いの視線がぶつかり絡み合うと、彼の不満そうな表情をはね除けるようにレナンシェはにっこり微笑み普段通りに「おや」と言葉を放った。 「私は皆に愛を説いているんだよ。勿論君にもね」 「また、そうやって誤魔化す」 水饅頭のようにぷっくりとほほを膨らませ、シエルは目をつんと逸らす。 面白くない。 このように突き進んだ質問をすれば、適当な発言で誤魔化すやり口には慣れていたが、ちゃんと答えようとしないのが不満だった。 こちらがまだ子供だからなのだろうか。 他の人間よりは大人のつもりなのに、レナンシェから見れば自分はまだ子供に見えるのかもしれない。 はあ、と溜息を吐く。 「少しお腹が空いてきましたね、シエル。腹拵えをしてから戻りましょう」 宥めているつもりなのか、それとも素直に空腹なのか。 レナンシェはシエルの肩を抱き呑気に言った。 …脱力感に苛まれる。 「お酒は二杯までですよ、レナンシェ様」 「遠出なのに制限をかけちゃうんですか?」 「ゆっくり飲んでいれば足ります!」 滞在費だって多くはないんですから、としっかりしたシエルに、レナンシェは折れた。 「じゃあ大きなサイズで頼もうかなあ」 「さ、酒場がやっていればの話ですよ!」 「大丈夫でしょう。まだやっていますよ。あなたの好きなデザートを頼んでもいいですよ」 酒場にはちゃんと甘いものもあるはずですからと誘惑しようとする彼に、シエルは更にむうっとする。 「また子供扱いして!」 他の子とは違うのだと言いたげに怒るシエル。 そうやってムキになる所がまだまだ子供だよと、レナンシェは笑った。 前日とはうって変わり、アストレーゼンは全域に渡って朝から晴れ晴れとした天気になっていた。 屋根から伝い落ちる雨水の残りが滴り落ちる音を聞きながら、自室のベッドで眠っていたオーギュはゆっくりと目を開ける。 改めて新調した少し大きめのベッドの中、寝乱れた髪を軽くかき上げた後、気にしていた手の紋様を確認した。 …紋様はようやく元に戻ったようだ。 薄れていた召喚獣との契約の証は、時期が来れば元に戻るだろうと本人から言われた通り、再び綺麗に刻印されていた。 隣で人の姿のまま寝息を立てるファブロス。 獣の姿だと寝る場所に困るだろうと耐久性の強いベッドを新調したのだが、そうなれば部屋が更に狭くなる為、仕方無く本棚一つ分を処分しスペースを作ったのだ。 中にある書物は、必要分だけ残し図書館に寄付した。 また読みたくなれば借りればいい。 全身に残っている怠さに耐えながらオーギュはベッドから離れてシャワーを浴びに行く。 分離している間、三日に一度の割合でファブロスから精液を求められていたオーギュは、とにかく早く紋様が元に戻らないかと待っていたのだ。 事後回復させてくれるとはいえ、毎度のように激しく求められてはこちらの体力も持たない。 精を吸われてしまう他に、一度覚えた挿入の味も占める始末。お陰で多少の刺激ですら身構えるようになってしまった。 術者は召喚獣に体を差し出さねばならんと当たり前のように言う彼を恨みに思っていたが、彼を求めたのは間違い無く自分だ。 シャワー室の蛇口から湯を出し、痕跡が残るしなやかな全身を濡らしていく。 今日やらなければならない事を頭の中で整理しながら、身をさっぱりさせていると、扉越しに影が過ぎった。 『オーギュ。ようやくお前の中に入れるぞ』 「起きたのですか、ファブロス。こちらも紋様が元通りになりました」 『そうだな。これで精を吸う回数も減るぞ。何しろお前からの恩恵を受けなければ魔力の減りも早くなってしまうからな』 何故か残念そうに言う。 ちょっと待ってなさいと告げ、早々と全身を洗い浴室から出ると、やけに寂しそうな顔のファブロスが突っ立っていた。 「…何ですか、ファブロス?」 タオルを引っ張り出し水滴を拭いながら目の前の美丈夫を見上げた。 『お前の中に戻れるのはいいが、お前の横で眠れなくなる』 「………」 普通に寝ればいいじゃないかと思った。 「あなたも眠れるように丈夫なベッドを買ったのですから、遠慮無く眠ればいいのですよ。それに獣のままでは生活しにくいですから、人の姿で生活する術も学んで貰わないと」 変な事を言いますねと言わんばかりにオーギュはファブロスに説明すると、彼は真顔で主人の両肩をがっしと掴む。 主人と同じく涼しげな雰囲気を撒き散らす端正な顔を若干綻ばせながら、ファブロスは『本当か?』と聞いてきた。少年のように目をきらきらさせながら。 「何でここで嘘をつかなきゃならないんです」 『本当に本当だな?オーギュ、ふわふわしたベッドで私も眠っていいのだな?』 「あなたのものでもありますから遠慮無く眠りなさい」 そうかと顔を紅潮させ、ファブロスは脱衣所から部屋へ戻る。オーギュは服を肌着を身に付けた後に室内へ向かい、身支度を始めた。 嬉しそうにベッドの上に乗るファブロスの姿に、オーギュはついくすりと吹き出してしまった。まるで子供のようだと。 「あまり跳ねたりはしないようにしなさいよ」 『分かっている。私はそこまで子供ではない』 嘘つけ…と内心思ったが、敢えて言わない。 「中庭で朝ご飯を頂いてから塔へ行きますよ」 いつもの宮廷魔導師の法衣に袖を通すと、軽くベッドで跳ねているファブロスに目を向けた。 大きなベッドで正座する体勢で軽く跳ねている彼の姿が滑稽に目に映る。 「ファブロス」 オーギュは彼に向けて手を差し伸べた。 紋様が刻まれた左手の甲を彼に見せると、ファブロスはふっと口元に笑みを浮かべる。 『また一心同体だな、オーギュ』 彼の体はふわりと魔力のベールに包まれると、久方振りにオーギュの紋様へと吸い込まれていった。 全身に暖かい感覚を覚える。 「また私の為に協力して貰いますよ」 体内に感じる召喚獣の鼓動を感じながら、オーギュは呟いた。それに応じ、ファブロスは当然だと返す。 書類と参考資料を手に、オーギュはいつものように司聖の塔へ向かう為部屋の扉に手をかけた。
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