占術師と因縁の女王

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占術師と因縁の女王

 木々が鬱蒼と茂るルゥコー山の中腹に、忘れ去られた集落があった。  様々な事情から、住民が増えることもあったのだが、それはもう過去の話になってしまった。今では、もう訪ねてくる者さえ少ない。  住む者がいなくなって朽ち果てた粗末な家屋、集落ができたときに苦労して掘ったのであろうと想像できる簡素な井戸、そして、ただ一人で暮らし続ける住人。ここにあるのは、ただそれだけだ。  妖の森という異名を持つルゥコー山には、かつての因習の影響から、小さな集落が作られていた。現在ではそれが廃れてしまったため、この山に集落があったことを知っている者は少ない。  そのため、この集落に人が増えることはなくなってしまったのだ。特殊な事情を抱えたこの集落には、新しい命が誕生することは稀であったから。  集落の存在が忘れ去られた頃に住人となったイリーナが生まれた土地は、昔ながらの考えが根づいている土地であった。  まだ異端児への差別や人を捨てる風習が残っていたため、この集落の存在を知っていたのだ。  昼間でさえほとんど光が射さない山からのささやかな恵みと、一から切り拓いた小さい畑で収穫した作物で、慎ましく暮らしている。  毎日満足するだけ食べれるわけではないが、生まれた土地でも貧しい暮らしをしていたため、あまり苦にはならない。  稀に、イリーナに仕事を依頼するひとたちが、生活に必要なものを置いていってくれるため、普通に暮らしていれば、生きていくことは難しくない。そのおかげか、故郷にいるときより、ほんの少しだけ贅沢ができる日もあった。  だからなのだろうか。建てつけの悪い住処さえ我慢すれば、そこまで悪い生活ではないと感じている。  山の天気は変わりやすい。外で畑仕事をしていたイリーナがふと見上げれば、晴れていた空は、いつの間にか厚い雲に覆われ、しとしとと優しく雫を滴り落としていた。  寒く感じるのは、雨に濡れてからではないだろう。心の底から、ゾクゾクっと冷え切っていく感覚に襲われているような気がするのだ。  自身の身体を守るように抱きしめる。そうしないと、壊れてしまいそうだ。 (雨の日は……あの子のことを思い出してしまうわ)  そう思っただけで、心が灰色になってしまうようだ。悲しい気持ちを隠すことなく涙をあふれさせ、視線を地面へと落としてゆく。  まだこの土地に足を踏み入れる前、イリーナにはひとりの子どもがいた。まだ赤子だった。  わけあって、それ以上成長することができなかったのだが、イリーナにとってはたった一人のかけがえのない宝物であった。 (冷たくなったあの子を離すことができずに守るように抱いた感覚は、今でも腕の中に残ってる。忘れることなんてできないわ)  大切な子どもではあったが、父親と呼べる存在はいない。いたとしても、認知してほしいと言える相手ではなかった。自分の立場を考えれば、それを願うことも、伝えることも身分不相応である。  だからこそ、子どもは大切に育てようと思っていた。立派に育てる決意をしていたのだ。  例え認められることがなくても、片側の血筋と相応の身分が与えられなくても、輝くような経歴を持った父親を誇れるような子どもに育てることが、イリーナも目標であったから。  しかし、それは叶わなかった。 (過去にすることはできない。でも、いつかは自分の気持ちに区切りをつけなければならない日が来る。それまでは──)  思考が子どものことで占められてゆく。  思い浮かぶのは、泣く姿だけだ。飢饉の年に生まれた子どもに、イリーナは満足に母乳を与えることができなかった。  子どもの出生に関する悪意のある噂や、栄養不足などいろいろな要因が重なったのが原因だ。  後悔しても、もう子どもが帰ってくるわけではないけれど、雨が降る日には、子どものことを思い出してしまうのだ。子どもが亡くなった日にも、糸のような雨が降っていたから。  まだ子どもが死んでしまったことを受け入れることができていないのだろう。どこかで、まだ生きているのではないか、死んだのは夢ではないのかと、そう思ってしまうときがある。  子どもを喪ったショックは大きく、逃避しなければ、生きていくことができなかった。現実を受け入れてしまえば、きっとイリーナは死を選んでいただろう。  流す涙がなくなるほどの悲しみで閉ざしていた心が少しだけ落ち着いた頃には、この集落の世話になっていた。  その間に何があったのかを思い出そうとしても、何も思い出せないでいる。それはきっと忘れた方がいい記憶だから、自ら閉ざしてしまったのだろうと思って、努めて思い返さないようにしているのだが、雨の日にはそれができない。  思考は、子どものことでいっぱいになって、胸の中は悲しみで溢れていく。 心に器があるとしたら、受け入れることができる量を越えているのかもしれない。だから、涙が溢れるのだろう。  目からとめどなく流れ落ちるそれを止めようと思っても止めることができないでいた。 「あ……」  涙をせき止めるように、イリーナの目の前の景色が歪んでゆく。目の前に広がっていた景色が徐々に薄れて、ここではない違う場所の景色が視えた。 image=510374614.jpg  それはいつも突然に始まって、イリーナの視界を占領していく。  吐き気に似た気持ち悪さを覚えながら、必死に意識を保つ努力をした。足に力をこめて、目を見開く。この気持ち悪さに負ければ、意識を失ってしまうことをイリーナは経験上知っているのだ。  違う景色が見えるのは予知のようなもの。未来が視えるときもあれば、少し離れた場所に起こっていることが視えるときもある。  それは小波のように、揺らめきながら視えるため、現実との区別は簡単につくのだ。しかし、それが未来であるか、今のことであるかは、区別をつけることは難しい。  自分の勘を頼りにどちらかを決めることしかできないのだ。  今回は、恐らく今のことなのだろうとイリーナは結論づけた。糸のように降る雨や、揺らめいているはずなのに異様に現実味のある風景は、現実のものとしか思えない。  未来に起こることは、ややぼんやりと視える傾向がある。  だが、くっきり見えるのに未来が視えることもあるし、ぼんやりしているのに現実であることもある。だから、絶対にそうだとは言い切れないはずなのだが、イリーナにはなぜか確信めいたものがあった。 「レジーナ様、なぜ、なぜこんなところに……」  そのつぶやきが漏れたのは、ルゥコー山の麓に軍服を身につけたふたりの女性が、雨の中を歩く姿が視えたからだ。そのうちひとりが、ジェドルイ王国の女王・レジーナであった。  ルゥコー山は、ジェドルイ王国の領地にあるため、ここに来ることはそこまで難しいことではない。王都の北東に位置しているだけで、さほど遠くはない場所にあるのだから。  イリーナに仕事を与えてくれるのは、ジェドルイ王国の貴族たちである。  王国の頂点のひとりであるレジーナが、自分を訪ねてくる可能性を考えたこともあった。ジェドルイ王国の重鎮御用達と言われているのは、自分でも分かっている。  それでも、レジーナに会いたくはない。  レジーナは知らないかもしれないが、イリーナにとって因縁のある人物。会いたくないという感情から、心が粟立っていくような感覚を覚えた。  悲しみがさらに溢れていく。心の器は、今にも割れてしまいそうだ。  子どものことを思い出していたタイミングで、レジーナが現れたことは不思議な縁で結ばれている証拠なのかもしれない。  会いたくないと心が叫んでいても、迎え入れなければならないだろう。  普通に考えれば、建てつけの悪いあばら家同然の家屋に女王が入るとは思えないが、そうさせてしまう理由はイリーナにあるのだから。レジーナだけ拒否することができるはずはない。  そう思うからこそ、すぐに動き始める。到着する前に、すべての準備を終えなければならないから。  一番外観がきれいな家屋の扉を開け放つ。その中は、ありとあらゆるものが紫で統一された空間が広がっていた。  その中から、小さな敷布を用意して、集落の中にある井戸の隣に広げた。  また紫の部屋へと帰り、不思議な文様の描かれた壺を敷布の上に置く。この壺に描かれた文様は、普通の人間にはただの模様にしか見えないが、ある種の力を持つ者にとっては、とても意味のあるものだ。  特にこの壺は、高貴な身分の相手のために作られたものである。  解読していけば、ジェドルイ王国や貴族という文字が読み取れるはずだ。しかし、この文字が読める者はそう多くはない。同じ家業に身を置く者にしか分からないだろう。  井戸から水をくみ上げると、壺の中に注いでゆく。  今くみ上げた水であることが重要なのだ。水は新鮮であれば新鮮であるほどいい。だが、ひとりでいるときに行わなければ意味がない。  不思議なことに、相手が到着してから行うと、何も視えなくなってしまうのだ。  それを紫の部屋が広がる家屋の中に運んでゆく。  普段イリーナが住んでいる最低限のものしかない家屋とは違い、紫を基調としたタペストリー、ラグなどが敷かれている。立派な屋敷と比べれば、薄汚い印象はあるものの、この集落で考えれば一番清潔感がある。  真ん中に敷かれているラグには、壺と同様の文様が刺繍されており、まるで魔方陣のような柄が描かれている。  真ん中の部分に、羅針盤のようなデザインが彫り込まれた器を置き、その斜め横に壺を置いた。器の両隣には枝つき燭台(ジランドール)が配置され、やや紫がかったろうそくが立てられていた。  気になるのは、燭台ごとにろうそくの数が違うことだろうか。七本のろうそくに火を灯すと、部屋の中に置かれた紫の調度品が浮き上がり、神秘的な面影を見せていた。  準備がすべて終わるそのときを待っていたかのように、建てつけの悪い扉がガタガタと音を立てる。  イリーナに緊張が走った。ドアの向こう側に居るレジーナを迎える心構えなどできてはいなかったが、不安を心の底へと押しこんだ。もう、覚悟を決めるしかない。 「お待ちしておりました、レジーナ様」  イリーナはドアの向こう側に居るはずの相手に、優しく話しかけた。
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