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「あ、あそこにいる営業マン。あのおっさんを僕の技にかけようかな」
紺色のスーツに身を包んだ、四十代半ばの男性の背後へと飛び立った。
勿論、彼の姿は人間には視えないし感じない。
ワンワン!ワン
柴犬がある空間を見て吠える。その目は上空から向かい側を歩く紺色のスーツの中年男性へと注がれた。
「こら、静かにしなさい!」
三十代くらいの女性が、飼い犬を窘める。時たま、アステマの姿は猫や犬などの動物、またはまだ穢れを知らない無垢なる魂を持つ子供には、視えてしまう時があるのだ。
男性の背後の舞い降りたアステマは鋭い視線を柴犬に向けた。
クウーン……
その芝犬は急に降参したように項垂れ、尻尾を巻いて座った。
あれほど柔らかい光を宿していた彼の深緑の瞳が、刃物のように冷たく、鋭い輝きを放つ。にこやかだった彼の表情は一変し、冷淡、いや冷酷なものへと変貌を遂げた。
(犬っころ、僕の仕事の邪魔しないでくれる? 僕に心臓を抉り出されたいのかい?)
と彼はテレパシーでその犬に伝えた。柴犬は飼い主の背後に隠れ、恐怖に震えあがった。
(フン、ばーか)
とアステマは鼻で笑うと、瞬時に元の柔らかく優し気な表情に戻り、男性の背後から両手を首に巻きつけ、彼に背負われるような形をとった。そして彼の左耳元でこう囁く……
男性は少し歩みを緩め、肩が凝った、というように右手で自分の左肩を叩く。
(ねぇ、もう十分働いたよ。もう働かなくて良いんじゃない?奥さんや子供達はさー。
こんなに頑張って働いてお金も全部家に入れてるのにさ……パパ、臭ーい。……あなた、もう少し稼いで頂かないと子供の塾代も馬鹿にならないんですよ!
……バカバカしいじゃん。仕事なんか辞めてさ。奥さんも子供もみーんな路頭に迷っちゃえばいいんだよ。
大丈夫!僕が高額宝くじ当ててあげる!)
男性は一旦立ち止まり、一度大きく深呼吸すると、元来た道を戻り始めた。
(そう。高額宝くじ当ててさ。面白おかしく過ごそうよ。女も奥さんみたいなくたびれたおばさんじゃなくて、若くて可愛い子も思いのままだ!)
とアステマは締めくくった。
男性はしっかりとした足取りで、駅前の割と大きくて有名な宝くじ売り場へと向かっていた。
……桜の木が優しく風に揺れる……。
「ウふふっ、大成功! 僕って天才!!」
と満面の笑みを浮かべた。
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