第1章

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「じゃあ、腕だしてくださいね」 「はい」  ピンク色のナース服に身を包んだ看護婦に促され、腕まくりをして注射台の上に腕を置く。  ひやっとした消毒用アルコールの感触。慣れているとはいえ、やはり背中がぞくりとする。 「では、採血しますねー」  針が刺さる痛みで思わず目をそむけてしまった。  注射は嫌いだ。  いや、好きというヤツはそうそういないだろう。  では何故俺がわざわざ献血に、自転車で三十分もかけてやってくるのか。  答えは、そむけた目の先にもう既にちらついていた。  奥の休憩スペースの一角に設けられたコーナー。そこに踊る「ご自由にどうぞ」の文字。  あれのためならこんなことぐらい我慢できる。  そう、それは……献血後にもらえるジュースとお菓子!  普通の家庭に育った人からすればそれは失笑ものの動機かもしれない。  しかし、俺にとっては切実な問題なのだ。  我が家は、七人家族だ。そう言うと、賑やかそうで羨ましいなんて無責任に笑うやつもいるが、長距離トラックの運転手の父と、スーパーでレジ打ちのパートをしている母の収入だけでは、正直俺達育ち盛りの五人兄弟を食べさせるのが精一杯だ。  さらに、俺が一昨年医大に入学したことで家計は火の車になっている。居酒屋でバイトを始めなんとか賄っているが、嗜好品に回す余裕など一切あるはずがない。  だから、講義に空きができた時など時間をみつけては献血ルームに通っている。ここで無料でもらえるジュースとお菓子は、学業、家事、バイトにと頑張る自分に対する唯一のゴホウビなのだ。  無料……あぁ、なんと甘美なその響き……。 「はい、終わりました。次はあちらの献血ベッドにどうぞ」  俺が半ばうっとりしているうちに、注射針は腕から抜かれていた。
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