第8章

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 辺りが暗くなり始めた頃、見覚えのある銀色の車が駐車場に入っていくのが見えた。ほどなくして傘をさした霧生さんが現れる。  俺はゆっくりと立ち上がりぽたぽたと水滴が落ちるのも構わず歩み寄った。 「霧生さん」 「遠藤くん、なんで……」  困惑した顔を見た途端に後悔の念がこみ上げてくる。別にこの人を困らせたい訳じゃないのに……。だけど俺は走って逃げ出したくなるのをぐっと堪えた。 「すみません。聞きたいことがあって……。それ聞いたらすぐ帰りますから」 「とにかく、中に入ろう」  肩を抱き寄せられて、玄関に向かう霧生さんに俺は俯いたまま無言で従った。  こんなに近くにいるのに、全く近くに感じられない。  濡れたシャツ越しに感じる指の温かさにさえよそよそしさを感じる。前回、ここに来た時はこんな気持ちを抱えて訪れる事になるなんて夢にも思わなかった。幸せで満たされていた時間が遠い遠い過去のように思える。  部屋の中に入るとすぐに、この前来た時と様子が一変していることに気づいた。ダンボール箱がいくつか置いてあり雑然としている。不審に思っていると「とりあえずこれで体拭いて」とバスタオルを手渡された。 「これ、一体……」 「あぁ、引っ越そうと思ってね」  霧生さんはなんでもない事のようにそう言うとサイドボードの上に並べられていた本を何冊か手に取りダンボール箱にしまいだした。  俺が『まさか』と思って引っ込めた言葉をすんなりと口に出されて一瞬唖然としてしまった。 「……俺のせいですか?」 「他にいい仕事がみつかったから、そっちに行くことにしたんだ」  俺の問いに答えずはぐらかしているのはわかったがそれ以上聞けなかった。  今日、俺がこうしてここに来なかったらこの人は俺の前から姿を消して二度と現れないつもりだったんだろう。  俺の存在はそれほどまでに霧生さんにとって重荷になっていたのだろうか。 「で、聞きたい事って何かな」  相変わらず俺の目を見ようとせず作業を続ける霧生さんに胸を締め付けられるような気持ちになりながらも今日大学であった出来事を、なるべく簡潔に話した。
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