第8章

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 エレベーターに乗り込みぼんやりと階数表示を見ていたら急に堪えきれなくなって涙が溢れた。  手酷い仕打ちをくらったというのにあの人を恨む気持ちなんてさらさらない。それどころかもう、『霧生さんに会いたい』なんて考えている。あの人が俺をこんなに落ち込ませた張本人だというのに、あの人に慰めてもらいたいだなんて間抜けた事を思っているんだ。こんなにあっけなくもう二度と会えなくなってしまうなんて何かの冗談なんじゃないか。  何がいけなかったのだろう?  どこからすれ違ってしまっていたのだろう?  簡単に答えが得られるはずもなく、エレベーターは一階に着いてしまった。俺は漏れそうになる嗚咽を噛み堪えて乱暴に手の甲で涙を拭った。  玄関から外に出ると雨は先ほどよりも勢いを増していた。みっともない泣き顔をごまかすには都合がいい恵みの雨だ。  自転車のチェーンを外すと気持ちに踏ん切りをつけるように勢いよくペダルを踏み、道路に漕ぎ出した。雨足が思いのほか強い。容赦なく顔面を叩く雨粒に視界を奪われ前輪がふらつく。  途端、目の前に眩しい光が飛び込んできた。  やばい! と思った瞬間甲高いブレーキ音が響き、すべてがスローモーションになった。ゆっくりと景色が回転する中、ここにいるはずのない霧生さんの姿が見え、俺は「人間、最後には一番見たいものが見えたりするのかな」なんて呑気な事を考えていた。
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