愛しい林檎

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 今では佳人がいない生活など考えられないし、可愛くて臆病な恋人を、どんなことがあっても守っていこうと思っている。他の誰とも比べ物にならないくらい大切に思っているし、彼がそばにいるだけで深く満たされるのだ。  そんな訳で、こうして彼と過ごす日々は本当に幸せなのだけれど、ただひとつだけ物足りないことがあるとすれば、彼が自分を呼ぶときの名前だ。  職場の同僚である勇次や善三は勇次さん、善さん、なのに、恋人である自分は、何故いまだに「芳崎さん」のままなのか。いつだったかベッドの中でそう訊いたら、佳人はしばらく口ごもって、それからフイと背を向けてしまった。黙秘権行使だ。  これが佳人相手でなければ尚も食い下がって聞き出そうとするのだろうが、佳人は稀に見る繊細な心の持ち主だ。無理強いして殻に閉じ籠られても困る。  芳崎がちいさく苦笑して背中から抱き締めると、佳人はしばらく息を殺してじっとしていたが、そのあとおもむろに身体を返し、芳崎の顔を見ないまま芳崎の胸に顔を埋めた。  その仔猫のような甘え方がまた堪らなく可愛くて、芳崎の顔はいちいち緩んでしまう。  つまり日々大変甘い、という話だ。
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