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「誠くんによろしくな」
『うん、……ありがとう。あの、今夜何がいい?』
おずおずと訊く様子が可愛らしくて、芳崎はついついからかいたくなる。先ほどコーヒーを飲みながら考えていたことを思い出し、軽い調子で言ってみた。
「そうだな、今夜は久しぶりに佳人のビーフシチューが食べたいな。それと、佳人からの『英嗣さん』って言葉が聴きたい」
ほんの冗談のつもりだったのだが、ふっと電話の向こうが静かになって、芳崎はやばいと思った。
「いや冗談だから! ちょっと言ってみただけだ。ほんと気にしないでいいから、な? ――あれ? 佳人?」
なおも返らない返事に焦って呼ぶと、一瞬緊張したような息遣いが聞こえて、そのあとふいに、
『――ぇ……英嗣さん』
ちいさな声が聞こえた。
(え……っ)
芳崎はまるで予想もしていなかったことに驚き過ぎて、一瞬言葉を忘れた。それからもの凄い勢いで喜びが沸き上がってくる。
「よ、佳人、あの」
「じゃ、じゃあ後で」
うわずった声で口早に告げて、佳人は芳崎の言葉も聞かずに電話を切ってしまった。
芳崎は携帯の画面を見つめながら、緩む口許を思わず片手で覆った。
一体どういう心境の変化だろう。どんな顔で自分の名を呼んだのかと思うと、今すぐに佳人の顔を見たくなった。
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