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少年の話をしよう。
彼の物語は二人が出会ったこの夜から遡ること三ヶ月、とある大学病院の診察室から始まる。
「澤唯史……この名前に聞き覚えはあるかい?」
椅子に腰かけた医師は手元のカルテから視線を離し、少年の方を向く。
「みんな、僕のことをそう呼びます。お母さん……とか、色んな人が」
『お母さんと名乗る人』……そう言わなかったのは、自身のすぐ後ろで不安そうな表情を浮かべる彼女の存在をすんでのところで思い出したためだ。
「そうですか。では以前にもした質問になりますが……こちらの写真に見覚えはない、ということで間違いないね」
「はい」
唯史は医師のデスクの上に並んだ写真を殆ど見ることなく、頷きを返した。
「………………」
唯史の返答を聞いた医師は右手を頬に添えてため息をつき、またカルテに視線を落とす。
「どうなんですか、先生」
唯史の後ろから母が身を乗り出す。これ以上黙っていることはもう耐えられない、そんな調子の声だった。
「可能な限りの検査は行いました。……ですが現状、唯史くんの脳からは異常と言えるものが一つも見当たりません。その上……」
医師は首を左右に振る。
「知能面のテストも問題なし。一般の高校生としては優秀といってもいい。唯史くん、ここで目が覚めてからの記憶ははっきりしているんだよね?」
「はい」
「最初の問診以降、その日あったことを書き残してマメに読み返すよう勧めているわけだけど……日記の内容と自分の記憶との間に、齟齬を感じたことは?」
「ありません」
「……この通り、新たに物事を記憶する能力にも何ら問題はなく、後遺症と呼ぶべき異変は一つもありません。事故以前のエピソード記憶、それだけがすっぽりと抜け落ちている」
「それじゃ治療は……?唯史の記憶はこれから、どうなるんです?」
「いつ治るかは……わかりません。一生戻らないということもあり得ます。ですが、彼が別の人間になったわけではありません。お母様やご家族には、辛抱強く今の状態と向き合っていただいて……」
医師と母のやり取りを、唯史は見知らぬ誰かに関する話を聞くような気持ちで眺めていた。
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