一章 ひび割れた同一性

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 ひどい事故だったそうだ。  周囲の人間からはそう聞かされたが、どこまでが本当なのか唯史は量りかねていた。  「少しずつ思い出していきましょうね」母と名乗った彼女は、絶えず唯史に優しい言葉をかけてくれた。  彼女だけではない。妹、父、恋人……事故以前から親しくしてきた者たちは皆唯史を思いやり、励ましの言葉を掛けた。  しかし唯史は分からなかった。なぜ自分は記憶を取り戻さねばならないのか、忘れたままでいることがなぜ不幸せなのか。不幸なのは、忘れられてしまった彼らの方ではないのか。  唯史はかつての自分に関する話をする誰かを見ると、その度『澤唯史』という物語のあらすじを聞かされているような心持ちになる。  記憶が戻るということはつまり、その物語の全編を余すことなく知るということだろう。果たして、その状態は自分が『澤唯史』に成ることとイコールで結ばれると言って良いのだろうか。  いや違う、そんなことにはならない。そんな声が自分の内側から聞こえてくるのを感じた。  しかしそれならば、俺は一体何者だというのだ。  その問いに対する答えは、どこからも返ってこなかった。
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