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今日は特別な日だ、最愛の娘に会いに行くのだ。
しばらく会いに行けていない、あいつは怒るだろうか。
たった一人の娘だったから、生まれた時は、それはもう嬉しかった。
初めて抱っこをする時、腰が引けていたのを妻に笑われたのを覚えている。
小学校に上がると、毎日楽しそうに学校に行っていた。よく笑いかけてくれたものだった。
中学校に上がると、あまり口を聞いてくれなくなった。そのせいか、喧嘩も多かった。
高校に上がると、少しは落ち着いたが、進路のことで、やはり衝突はあった。必要以上に叱ってしまったこともあった。
大学受験を控えていた娘に、差し入れをすると、小さく「ありがと」と言ってくれたことに少し目が潤んでしまったのは、少し恥ずかしいことだったかな?
大学を卒業後、就職し、娘は一人暮らしを始めた。
たまに電話などをしたが、疲れたような声で心配だった。
二年ほど経ったころ、久しぶりに実家に帰ってきたと思ったら、恋人がいると言った。
あまりの衝撃に言葉でてこなかった。
結婚も考えているそうだ、そのことで少しギクシャクした雰囲気になってしまった。
夜に一人酒を飲んでいると、静かに娘が部屋に入ってきた。
「ごめん」と謝ってきた。学生の頃からのこともポツポツと話し、最後に「ありがと」と言った。あの頃より多くの涙が流れた。年のせいだろうか。
私は何も言えなかった。「こっちこそ」という言葉がでてこなかった。情けない。
翌日、娘は向こうへ戻るため家を出た。
セミが五月蝿い八月の夏の日だった。
私は結局、あれから娘になんの言葉もかけれなかった。
「体に気を付けろよ」
「仕事は辛くないか?」
「今度その恋人を紹介しなさい」
「今まですまなかったな」
「私の娘でいてくれてありがとう」
言いたいことはいっぱいあった。
簡単な言葉なのに、娘が乗った電車が見えなくなるまで言えなかった。
その晩、ニュースで列車事故があったと報道があった。警察から連絡あり、娘が亡くなったことを知った。
通夜、葬式が終わるまで涙は出なかったが、家に一人、あの時娘と二人きりの部屋に入ると、オイオイ泣いた。
今日は特別な日だ…
しばらく来れなくてすまなかった。
年をとると、体がなかなか言うことを聞いてくれんのだ。
花を供え、線香をあげ、心の中であの時言えなかった言葉を呟いた。
八月、あぁ…セミが五月蝿い。
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